1059 年 、 ニコラウス 2 世 は 教 令 を 発し 、 枢機卿 就任 の ため に ローマ の 聖職 者 と 信徒 の 同意 を 必要 と し た 上 で 、 教皇 は 枢機卿 団 から 選ば れる こと と 初めて 決定 し た 。
当時 は 司教 枢機卿 たち が 最初 に 集まっ て 誰 が 次 の 教皇 に ふさわしい か 討議 し 、 話 が まとまっ た ところ で 司祭 枢機卿 ・ 助祭 枢機卿 が 呼ば れ て 投票 を おこなう という 形 が とら れ て い た 。
1139 年 、 ラテラン 教会 会議 で 教皇 や 枢機卿 の 選出 における 信徒 と 下級 聖職 者 の 同意 が 完全 に 廃止 さ れ た 。
1059 年 以来 、 枢機卿 団 が 教皇 選出 の 任務 を 担っ て いる が 、 1268 年 クレメンス 4 世 死去 後 の 教皇 選挙 が 紛糾 し て 3 年 近く 空位 が 続い た こと に 怒っ た 民衆 が 選挙 者 たち を 会場 から 出 られ ない よう に 閉じ込め た 、 という 故事 が あり 、 これ が コンクラーヴェ の 起源 と いわ れる 。
枢機卿 団 だけ が 教皇 選出 権 を 持つ という 規定 は 、 1378 年 以降 の 教会 大 分裂 の 時代 において 激しい 論議 の 的 と なっ た 。
フランス 出身 の 教皇 グレゴリウス 11 世 の 死後 、 ローマ 市民 は イタリア 出身 の 教皇 を 要求 し て 暴動 を 起こし 、 枢機卿 団 は 圧迫 に 耐え かね て イタリア 出身 の ウルバヌス 6 世 を 選出 し た 。
選挙 に 不当 な 圧力 が かかっ た と 感じ た 枢機卿 団 は 同年 、 ローマ を 離れ て フォンディ へ 移動 し 、 ふたたび 選挙 を おこなっ て 対立 教皇 を 選出 し た 。
これ 以降 、 枢機卿 団 のみ が 教皇 選挙 権 を 持つ こと が 再 確認 さ れ 、 公 会議 は 教皇 の 権威 を 超える もの で は ない こと が 確認 さ れ た 。
枢機卿 団 は 13 世紀 に は わずか 7 人 だっ た こと も ある が 、 16 世紀 に 入っ て 急激 に 拡大 し 、 1578 年 まで 人数 は 増加 の 一途 を たどっ た 。
これ を 憂慮 し た 教皇 シクストゥス 5 世 は 枢機卿 団 の 人数 の 上限 を 70 名 と し た 。
次 の 教皇 パウロ 6 世 も 教皇 選挙 制度 の 改革 に 取り組み 、 80 歳 以上 の 枢機卿 の 教皇 選挙 へ の 参加 を 制限 、 投票 権 を 持つ 枢機卿 団 の 人数 の 上限 を 120 人 と し た 。
これ は 必然 的 に 80 歳 未満 の 枢機卿 の 人数 の 上限 で も ある 。
以後 、 有権 枢機卿 の 任命 は 、 この 上限 から 相当 数 の 乖離 が 生じ 、 その 補充 を 目的 として 、 数 年 に 一度 行わ れ て いる ( この 規定 を 逆手 に 取っ て 80 歳 以上 の 聖職 者 で 、 教会 へ の 顕著 な 貢献 の ある もの へ の 名誉 的 な 枢機卿 任命 も 行わ れる よう に なっ た ) 。
ただし 、 枢機卿 団 の 年齢 構成 を 考慮 し て 、 この 上限 を 上回る こと も 何 度 か 発生 し て いる 。
時代 が たつ と さらに 限定 さ れ て 枢機卿 団 のみ が 資格 を 持つ こと に なっ た 。
1378 年 に 選ば れ た ウルバヌス 6 世 は 、 枢機卿 団 以外 から 教皇 に 選ば れ た 最後 の 人物 と なっ た 。
現代 で も 、 男性 信徒 で あれ ば 誰 でも 枢機卿 団 に 選ば れる 資格 が ある こと に なっ て は いる が 、 実際 に は ほとんど 司教 から 選ば れ て いる 。
ヨハネ ・ パウロ 2 世 は システム を さらに 改め 、 再び 必要 数 を 3 分の 2 以上 ( 参加 者 数 が 3 で 割り切れ ない 場合 は 1 票 加算 ) と し 、 さらに 自分 へ の 投票 を 認め 、 一定 回数 の 投票 で も 決まら ない とき に は 、 首席 枢機卿 の イニシアティブ により 、 必要 な 得票 数 を 変更 できる よう に し た 。
1978 年 10 月 の コンクラーヴェ まで は 、 投票 を 行う 枢機卿 たち は システィーナ 礼拝 堂 内 に 閉じ込め られ 、 新 教皇 が 選出 さ れる まで は 礼拝 堂 から 出る こと を 禁じ られ て い た が 、 2005 年 の コンクラーヴェ から は 廃止 さ れ た 。
枢機卿 団 は かつて の よう に システィーナ 礼拝 堂 に 缶詰 に さ れる こと は なく 、 ヨハネ ・ パウロ 2 世 によって バチカン に 新築 さ れ た 宿舎 ・ ドムス・サンクテ・マルテ ( 聖 マルタ の 家 ) という 宿舎 で 生活 し ながら 、 システィーナ 礼拝 堂 に 投票 に 赴く こと に 改め られ た 。