駿府 は 今川 領国 の 中心 として 繁栄 し 、 今川 義元 は 相模 国 の 後 北条 氏 と の 争い ( 河東 の 乱 ) を 収束 さ せる と 、 甲斐 の 武田 氏 、 相模 後 北条 氏 と 三 国 同盟 を 形成 し 駿河 国 、 遠江 国 、 三河 国 の 3 国 を 支配 し た 。
永 禄 3 年 ( 1560 年 ) 、 尾張 国 の 織田 信長 と の 桶 狭間 の 戦い において 当 主義 元 が 敗 死 し 今川 氏真 に 当主 交代 する と 三河 において は 松平 元康 ( 徳川 家康 ) が 独立 する など 今川 領国 は 動揺 する 。
その後 、 武田 氏 は 矛先 を 遠江 ・ 三河 方面 に 向け 家康 や 信長 と 対決 し 畿内 情勢 に も 影響 を 及ぼし た が ( 西上 作戦 ) 、 元 亀 4 年 に は 信玄 が 死去 し 自体 は いったん 収束 する 。
信玄 の 死後 、 信長 は 畿内 において 政権 を 確立 し 家康 も 岡崎 から 浜松 に 拠 を 移し 勢力 を 回復 し 、 武田 氏 で は 勝頼 に 当主 交代 する と 再 侵攻 を 繰り返す が 、 天正 3 年 の 三河 において 織田 ・ 徳川 勢 が 武田 勢 に 致命 的 打撃 を 与え た 長篠 の 戦い と 、 天正 9 年 の 高天 神城 陥落 を 契機 に 駿 遠 二 国 における 武田 氏 の 勢力 は 後退 し 、 天正 10 年 ( 1582 年 ) に 武田 氏 は 織田 ・ 徳川 勢 により 滅ぼさ れ た 。
同年 、 本能寺 の 変 において 信長 が 横死 し 旧 武田 領国 が 空域 化 する と 家康 は 本国 の 三河 ・ 遠江 のみ なら ず 武田 遺 領 で ある 甲斐 ・ 信濃 国 ・ 駿河 を 確保 し ( 天正 壬 午 の 乱 ) 、 5 国 を 支配 し 東国 における 一大 勢力 に 成長 し た 。
また 、 飯 伊 地域 ( 南 信 ) は 、 広域 の 名古屋 圏 ( 中京 圏 ) で あり 、 中央 自動車 道 ・ 国道 153 号 ( 三 州 街道 、 足助 街道 ) を通して 、 岐阜 県 東 濃 地方 ・ 愛知 県 尾張 ・ 西 三河 地方 と 接続 し て いる ため 、 経済 や 文化 の 面 で 繋がり が 深い 。
これ は 国鉄 三河 島 事故 、 鶴見 事故 以降 、 京 急 線 内 で は 脱線 事故 など の 際 に 転覆 事故 へ と 被害 を 拡大 さ せ ない こと 、 軌道 回路 の 正確 な 検知 を 行う こと で 素早く 確実 な 分岐 器 の 転換 ・ 信号 の 開通 ・ 踏切 の 動作 が 求め られ て いる ため で ある 。
例えば 、 三河 の 水野 氏 が 備後 福山 に 立 藩 し た ため 三 河 の 言語 が 備後 地域 に 流入 し 、 福山 地方 の 方言 に 三河 方言 が 混ざっ て いる 。
1905 年 ( 明治 38 年 ) 4 月 1 日 に 常磐 線 の 三河 島 - 日暮里 間 が 開通 し 、 それ まで 田端 で 折り返し て 運転 し て い た 常磐 線 の 列車 が 直接 上野 駅 へ 乗り入れる よう に なっ た 。
家系 は 三河 国 の 国人 土豪 ・ 松平 氏 。
家康 は 、 戦国 時代 中期 ( 室町 時代 末期 ) の 天文 11 年 ( 1542 年 ) に 、 三河 国 岡崎 ( 現 ・ 愛知 県 岡崎 市 ) で 出生 し た 。
この 際 、 ( 義元 から の 偏 諱 ( 一 字 ) を 捨てる 意味 で ) 名 を 元康 から ( 松平 ) 家康 ( いえ やす ) に 改め 、 信長 の 盟友 ( 事実 上 は 客将 ) として 、 三河 国 ・ 遠江 国 に 版図 を 広げ て いく こと と なる 。
以後 近江 、 遠江 、 三河 など を 転戦 し 、 天正 10 年 ( 1582 年 ) 、 本能寺 の 変 において 信長 が 明智 光秀 に 討た れる と 、 神流川 の 戦い により 空白 地帯 と なっ て い た 甲斐 国 ・ 信濃 国 をめぐって 関東 の 後 北条 氏 、 越後 の 上杉 氏 と 争い ( 天正 壬 午 の 乱 ) 、 この 二 ヶ国 を 手中 に し て さらに 勢力 を 広げ た 。
三河 国 の 土豪 で ある 松平 氏 の 第 8 代 当主 ・ 松平 広 忠 の 嫡男 として 、 天文 11 年 ( 1542 年 ) 12 月 26 日 寅 の 刻 ( 午前 4 時 頃 ) 、 岡崎 城 で 生まれる 。
その後 、 今川 軍 が 放棄 し た 岡崎 城 に 入る と 、 三河 国 支配 を 志す 。
三河 国 へ の 対応 に 遅れる 今川 氏 と の 間 で 宝飯 郡 を 主戦 場 と し た 攻防 戦 を 繰り広げ た 後 、 永 禄 9 年 ( 1566 年 ) まで に は 東 三 河 ・ 奥 三 河 ( 三河 国 北部 ) を 平定 し 、 三河 国 を 統一 し た 。
この 年 、 朝廷 から 従 五 位 下 ・ 三河 守 の 叙任 を 受け 、 徳川 氏 に 改姓 し た 。
松平 家 は すくなくとも 清康 の 時代 から 新田 氏 支流 世良田 氏 系統 の 清和 源 氏 で ある と 自称 し て い た が 、 正親町 天皇 より 「 清和 源 氏 の 世良田 氏 が 三河 守 を 叙任 し た 前例 は ない 」 と 拒否 さ れ た 。
だが 、 信長 は 管領 就任 を 辞退 し た こと から 、 家康 も 依然として 従来 の 「 三河 守 」 を 用い 続け た 。
元 亀 元年 ( 1570 年 ) 9 月 に 三好 三 人 衆 討伐 の ため に 義昭 から 家康 に 充て られ た と み られる 御内 書 の 宛名 が 徳川 改姓 ・ 三河 守 叙任 以前 の 「 松平 蔵人 」 に なっ て いる ため で ある 。