鎌倉 期 の 上杉 氏 は 五 位 以上 の 官位 を 得 られ ず に 没落 し て おり 、 重房 は 村上 源 氏 土御門 流 の 家人 で あっ た 可能 性 が 指摘 さ れる 1266 年 ( 文 永 3 年 ) 、 宗尊親王 は 謀反 の 疑い により 帰洛 さ せ られる が 、 重房 は そのまま 鎌倉 に とどまり 、 武士 と なっ て 幕府 に 仕え た 。
→ 「 土御門 東洞 院 殿 」 及び 「 京都 御所 」 の 各項 も 併せ て 参照 。
現在 の 京都 御所 は 、 もと は 里 内裏 の 土御門 東洞 院 殿 ( つ ち みか ど ひがし の とう いん どの ) で ある 。
正親町 南 ・ 東洞 院 東 ・ 土御門 北 ・ 高倉 西 の 1 町 4 方 に 所在 し 、 元 は 権 大納言 藤原 邦 綱 の 邸宅 だっ た 。
元弘 元年 ( 1331 年 ) 、 後醍醐天皇 が 都 を 脱出 し て 笠置山 に 立て 籠る と 、 幕府 が 擁立 し た 光 厳 天皇 は 土御門 東洞 院 殿 を 改めて 里 内裏 と し 、 以後 明治 2 年 ( 1869 年 ) の 東京 遷都 まで 27 代 の 天皇 の 御所 と なっ た 。
この間 、 応永 8 年 ( 1401 年 ) の 火災 焼失 の 後前 太政大臣 足利 義満 が 平安 宮内 裏 を 模 し た 本格 的 な 内裏 の 機能 を 持つ 土御門 東洞 院 里 内裏 を 再建 し た 。
後 に 土御門 家 に 仕え て 主計 正 の 官途 名 を 名乗っ た 。
後 に 間 重富 の 推挙 を 受け て 陰陽 頭 を 代々 務める 土御門 家 に 出仕 し て 上役 で あっ た 和田 寧 より 円 理学 ( 円 の 面積 や 球体 の 体積 、 曲線 など について 学ぶ 学問 ) の 奥義 を 受け た 。
内容 は 慈光寺 本 を 除く と 、 後鳥羽上皇 の 記述 から 始まり 、 土御門 上皇 の 配流 に 終っ て いる 。
後鳥羽上皇 の 専制 、 三 代 将軍 実 朝 の 暗殺 、 合戦 の 原因 ・ 経緯 など を 述べ て 、 土御門 上皇 の 阿波 配流 まで を 書く 。
本来 は 陰陽 頭 は 賀茂 氏 や 大中 臣 氏 など の 格式 の 高い 陰陽 家 が 歴任 し て い た が 、 吉 昌 以降 安倍 氏 と 賀茂 氏 の 安賀 両家 によって 代々 世襲 さ れ 、 やがて は 安倍 氏 ( 室町 時代 以降 は 土御門 家 と 称する ) が 独占 し て いく こと と なっ た 。
武家 伝奏 のみ なら ず 、 後 土御門 ・ 後 柏原 両 天皇 の 乳母 ( 守子 、 大 典侍 ) や 二条 政 嗣室 を 娘 に 持つ など 、 宮廷 に も 強い 人脈 を 有し 、 死 の 間際 に は 摂関 家 の 左右 両 大臣 が 有し て い なかっ た 従 一 位 に 叙 さ れ て 准 大臣 宣下 を 受け て いる 。
宇都宮 大 潔 ( うつのみや おおき よ 、 文化 元年 8 月 ( 1804 年 ) - 明治 8 年 1 月 18 日 ( 1875 年 ) ) は 、 江戸 時代 末期 から 明治 時代 初期 の 土御門 家 の 陰陽 師 、 歌人 。
江戸 中期 以後 、 万歳 師 は 土御門 家 の 支配 下 に 入り 、 陰陽 道 職 と なっ た 。
平安 時代 の 陰陽 師 で ある 安倍晴明 の 系譜 を 引き 、 陰陽 道 を 家業 と し た 京都 の 公家 で 、 江戸 時代 の 1683 年 に 将軍 の 徳川 綱吉 から 「 占い を 行う 者 は 全て 土御門 家 の 差配 に 従う よう に 」 という 朱印 状 が 出さ れ 、 陰陽 師 ら を 統括 する 陰陽 道 宗家 と さ れ た 。
その ため 三 河 万 歳 の 万歳 師 は 土御門 家 から 免許 状 を もらい 、 毎年 貢 納 料 を 納め て 江戸 を はじめ 関東 17 カ国 を 巡回 する 権利 を 得 て い た 。
また 土御門 入道 と 号す 。
久我 通 光 の 昇進 を 先例 として 、 鎌倉 時代 に 前 内大臣 から 太政大臣 に 昇進 し た の は 徳大寺 実基 、 実 兼 、 洞 院 公 守 、 土御門 定実 、 大炊 御門 信 嗣 、 三条 実 重 、 久我 通雄 で ある 。
子 に 鷲尾 光 遍 ( 真言宗 山階 派 管長 ) 、 土御門 晴 善 ( 農学 者 ) 、 受子 ( 松浦 治夫 人 ) ら が いる 。
江戸 時代 に 幸 徳井 家 ( 賀茂 氏 の 庶流 で ある ) が 再興 し 、 土御門 家 ( 安倍 氏 の こと ) とともに 陰陽 道 の 管理 を 任さ れ た が 、 土御門 家 と の 争い に 負け 、 再び 衰退 し た 。