金沢 城内 に 設け た 御 細工 所 は 初め 武器 ・ 武具 の 修理 等 を 行う 組織 で あっ た が 、 利常 は 茶の湯 道具 や 掛 幅 など 美術 工芸 品 の 製作 ・ 修理 を さ せ 、 綱紀 は 塗 物 ・ 蒔絵 細工 、 象嵌 細工 など 20 を 越える 職種 を 扱わ せ た 。
兼 六 園 は 綱紀 による 蓮池 庭 と 御殿 の 建設 が 始まり と さ れ 、 現在 の 姿 が 完成 する の は 江戸 時代 後期 で ある 。
輪島塗 は 江戸 時代 に 輪島 で 下地 塗り の 漆 に 混ぜる 珪藻土 が 見つかっ た こと で 堅牢 な 漆器 と なり 、 日用 食器 として 盛ん に 生産 さ れる よう に なっ た 。
大聖寺 藩 で は 江戸 時代 初め に 殖産 興業 の 一環 として 鉱山 開発 に 取り組み 九谷 村 ( 現 ・ 加賀 市 ) で 磁鉱 が 発見 さ れ た こと から 窯 を 築き 色絵 磁器 ( 九谷焼 ) の 製造 が 始まっ た 。
一旦 廃 窯 さ れる が 九谷焼 は 加賀 藩 により 再興 さ れ 、 明治 期 に は 海外 へ の 輸出 品 と なっ た 。
1869 年 ( 明治 2 年 ) 版籍 奉還 で 加賀 藩 は 金沢 藩 と なり 、 14 代 藩主 前田 慶寧 は 金沢 藩 知事 に 任命 さ れ た 。
これ により 、 先 の 県庁 移転 の 根拠 が 消滅 し 、 翌 1873 年 ( 明治 6 年 ) に 再び 県庁 は 金沢 に 移転 し た が 、 県 名 は その後 も 石川 県 の まま と さ れ た 。
1874 年 ( 明治 7 年 ) 、 旧 金沢 藩士 長谷川 準 也 ( 後 の 金沢 市長 ) ら により 金沢 製糸 場 が 創設 さ れ た 。
1887 年 ( 明治 20 年 ) 4 月 、 金沢 に 旧制 第 四 高等 中学校 ( 現 ・ 金沢 大学 の 前身 ) が 設置 さ れ た 。
翌 1898 年 ( 明治 31 年 ) 4 月 に 金沢 駅 まで 、 同年 11 月 に 高岡 駅 まで 延伸 さ れ た 。
また 同年 4 月 に は 七 尾 鉄道 が 津幡 仮 停車 場 ( 現 ・ 本津幡 駅 付近 ) から 矢田新 駅 ( 後 の 七尾 港 駅 ) まで 開通 し 、 1907 年 ( 明治 40 年 ) 国有 化 さ れ た 。
同年 、 金沢 で は 電気 の 送電 が 開始 さ れ 、 翌 1901 年 ( 明治 34 年 ) に 市内 電話 が 開通 。
1947 年 ( 昭和 22 年 ) の 第 2 回 国民 体育 大会 が 石川 県 を 中心 として 開催 さ れ た の は 一つ の 例 で ある 。
戦後 、 アメリカ 軍 が 内灘 村 ( 現 ・ 内灘 町 ) で 接収 し た 砲弾 試射 場 に対する 反対 運動 ( 内灘 闘争 ) が 起こり 、 1952 年 ( 昭和 27 年 ) から 翌年 にかけて 激し さ を 増し た 。
その後 1957 年 ( 昭和 32 年 ) に 撤収 さ れ た ため 事態 は 次第に 収束 し て いっ た 。
旧 海軍 の 小松 飛行場 は 戦後 アメリカ 軍 に 接収 さ れ て い た が 、 1955 年 ( 昭和 30 年 ) に 不定期 の 大阪 便 が 就航 し た 。
1958 年 ( 昭和 33 年 ) に アメリカ 軍 の 接収 が 解除 さ れる と 航空 自衛隊 が 駐屯 。
翌年 金沢 駅 ・ 富山 駅 間 も 電化 さ れる 。
一方 、 1967 年 ( 昭和 42 年 ) 金沢 の 市内 電車 が 廃止 さ れ た 。
一方 で 2003 年 ( 平成 15 年 ) に は 珠洲 市 で 建設 計画 の あっ た 珠洲 原子力 発電 所 ( 北陸電力 ・ 中部電力 ・ 関西電力 ) の 計画 凍結 が 発表 さ れ た 。