慶長 17 年 ( 1612 年 ) 、 安倍晴明 の 末裔 で ある 陰陽 頭 ( 従 三 位 ・ 非 参議 ) 土御門 久 脩 の 次男 泰 吉 が 分家 し て 「 倉橋 」 を 称し た の に はじまる 。
家紋 は 土御門 家 に 倣い 「 蝶 」 、 菩提寺 は 「 真如堂 。
元々 、 編 暦 作業 は 朝廷 の 陰陽 寮 の 所轄 で あり 、 土御門 家 が あたっ て い た が 、 貞享 元年 ( 1684 年 ) に 渋川 春海 が 貞享 暦 を 作成 し 、 従来 の 宣明 暦 から 切り替える と 、 幕府 は 寺社 奉行 の もと に 天文 方 を 設置 し 同年 の 12 月 1 日 ( 1685 年 1 月 5 日 ) に 春海 が 天文 方 ( 役職 名 として は 「 天文 職 」 とも ) に 就任 し た 。
大政奉還 、 鳥羽 ・ 伏見 の 戦い 後 、 土御門 晴雄 は 朝廷 に 願い出 て 、 歴 算 、 頌歴 の 権限 を 土御門 家 に 取り戻し 、 天文 方 は 廃止 さ れ て 、 同職 に あっ た 渋川 敬 典 ・ 山路 彰 常に 代わっ て 、 晴雄 が 陰陽 頭 として 責任 者 の 地位 に 就い た 。
土御門 家 は 明治 2 年 の 作 歴 を 行う が 、 同年 晴雄 が 没し 、 土御門 家 を 11 歳 の 子 ・ 和 丸 ( 土御門 晴 栄 ) が 継ぐ 事 と なり 、 明治 3 年 ( 1870 年 ) 、 天文 暦 道 の 権限 は 文部省 の 天文 暦 道 局 に 移さ れ 、 同年 天文 暦 道 局 は 東京 に 移さ れ 、 星 学 局 と 改称 さ れ た 。
同年 末 、 土御門 晴 栄 は 大学 御用 係 を 免職 と なり 、 暦 道 における 土御門 家 の 特権 は 廃止 さ れ た 。
室町 時代 に 入る と 、 暦 博士 が 天文 密奏 を 行う 例 も 見 られる が 、 賀茂 氏 の 嫡流 で ある 勘解由小路 家 の 断絶 により 、 土御門 家 が 暦 道 の 主導 権 を 握り 、 賀茂 氏 の 庶流 幸 徳井 家 を 圧迫 し て 傘下 に 加え た 。
更に 平安 時代 中期 に 賀茂 保憲 から 天文 道 を 継承 し た 安倍晴明 以後 、 天文 道 は 安倍 氏 ( 後 の 土御門 家 ) の 家学 と なり 、 他 氏 の 者 が 関わる こと を 避ける 傾向 が 現れ た 。
安倍 氏 の 分裂 状態 は 室町 幕府 の 支援 を 受け た 安倍 有 世 ( 泰 親 の 子孫 ) の 元 で 統一 が 図ら れ 、 土御門 家 と 号 し て 天文 道 ・ 陰陽 道 を 統括 する 立場 と なり 、 更に 江戸 時代 の 土御門 泰 福 の 時代 に は 賀茂 氏 宗家 の 断絶 後 、 賀茂 氏 庶流 の 幸 徳井 家 と 争っ て い た 暦 道 の 地位 も 奪っ て 、 安倍 氏 流 土御門 家 による 陰陽 寮 支配 が 確立 さ れる こと と なっ た 。
日本 で 今日 の よう な 天文学 の 研究 が 開始 さ れる の は 、 江戸 幕府 が 天文 方 を 設置 し て 以後 で ある が 、 初代 天文 方 の 渋川 春海 は 『 天文 瓊統 』 において 、 科学 的 な 天文 観測 とともに 天文 道 以来 の 天体 と 占い の 関係 について の 学説 に 割い て いる ( これ は 春海 が 土御門 泰 福 から 神道 を 学ん だ 影響 も 大きい ) 。
また 、 土御門 家 の 天文 道 や 宿 曜道 に 由来 する 仏教 天文学 の 抵抗 も あり 、 その 本格 化 は 陰陽 寮 が 廃止 さ れ た 明治 時代 以後 の こと に なる 。
それ 以前 の 天文学 は 天文 道 として 扱わ れ て 土御門 家 に 代表 さ れる よう な 特定 の 家 の 家学 と さ れ 、 また 天体 の 動き と 国家 の 興亡 が 結び付け られ て い た ため に 一種 の 機密 扱い と さ れ て 、 こうした 本 が 出さ れ た 事 は 無かっ た 。
同年 5 月 に は 承 久 の 乱 が 勃発 し 、 乱 の 終結 後 、 土御門 上皇 は 乱 に 直接 関与 し て い なかっ た に も かかわら ず 、 父 後鳥羽上皇 の 隠岐 国 へ の 配流 が 決定 する と 自ら 望ん で 土佐 国 に 配流 さ れ た が 、 麗子 は 同行 せ ず 京 に 留まっ た 。
寛 喜 3 年 ( 1231 年 ) 、 土御門 上皇 が 配流 先 の 阿波 国 で 崩御 する と 、 麗子 は 自身 の 封 戸 、 年 官 、 年 爵 を 辞し て 隠遁 し 、 寛 元 元年 ( 1243 年 ) 、 59 歳 で 崩御 し た 。
土御門 藤子 ( つ ち みか ど ふじこ 、 1842 年 ( 天保 13 年 ) ? - 1875 年 ( 明治 8 年 ) 7 月 13 日 ) は 、 江戸 時代 後期 から 幕末 の 公家 の 女性 。
和宮 の 授乳 の 乳母 は 田中 藤 ( 少 進 ) で あり 、 土御門 藤子 と は 別人 。
土御門 晴 親 の 四 女 。
万延 元年 ( 1860 年 ) 、 孝明天皇 の 皇 妹 和宮 親子 内親王 の 将軍 徳川 家茂 へ の 降嫁 が 決まる と 、 和宮 の 乳母 で ある 土御門 藤子 は 、 和宮 付き を 命ぜ られ て ともに 江戸 へ 下っ た 。
ただし 、 応仁 の 乱 後 は 殆ど 行わ れ なく なり 、 朝廷 の 権威 の 低下 とともに 、 暦 道 を 掌 っ た 勘解由小路 家 ・ 土御門 家 の 混乱 、 縁起 ・ 吉凶 を 理由 として 複雑 な 再 計算 を 避け たい 暦 道 側 の 思惑 など が あっ た と 考え られ て いる 。
この ため 、 信長 は 陰陽 頭 土御門 久 脩 を 安土 に 呼び出し て 尾張 の 業者 と 論争 を さ せ た ところ 決着 が 付か ず 、 最終 的 に 信長 の 判断 で 閏月 を 12 月 に 置く よう に 決定 し て 朝廷 に 要望 を 行っ た 。