これ により 京都 の 政情 は 一変 し 、 佐幕 派 が 再び 実権 を 握っ た 。
ただし 、 幕末 ・ 維新 期 の 尊皇 派 の 主要 人物 で ある 西郷 隆盛 や 吉田 松陰 は 、 ともに 朱子学 で は なく 陽明学 に 近い 人物 で あり 、 佐幕 派 の 中核 で あっ た 会津 藩 、 桑名 藩 は それぞれ 保科 正之 、 松平 定信 の 流れ で あり 朱子学 を 尊重 し て い た 。
江戸 で 開成 所 教授 ・ 柳河 春 三 と 親交 を 持っ た が 、 春三 は 後 に 『 中外 新聞 』 を 発行 し て おり 、 柳河 と の 関係 を通じて 戊辰戦争 中 佐幕 派 の 情報 収集 に も あたっ た 。
これ により 、 以後 、 旧 幕府 領 ・ 旗本 領 や 戊辰戦争 における 佐幕 藩 から の 接収 地 など に 順次 府県 が 設置 さ れ 、 知 府 事 ・ 知 県 事 が 任命 さ れ た 。
) 慶応 3 年 ( 1867 年 ) に 説得 の ため に 帰 藩 する が 、 熊本 藩 は 佐幕 派 が 実権 を 握っ て い た ため に 逆 に 投獄 さ れ た 。
佐幕 派 で あっ た 熊本 藩 は 、 彦斎 を 利用 し て 維新 の 波 に うまく 乗ろ う と する が 彦斎 は 協力 を 断っ た 。
佐幕 ( さばく ) と は 、 動乱 の 幕末 期 に よく 使わ れ た 言葉 で 、 「 幕府 を 補佐 する 」 の 意 。
しばしば 倒幕 派 と 対比 する ため に 佐幕 派 と も 呼ば れる 。
佐幕 と いっ て も 、 勤王 ・ 攘夷 の 志 は ある ものの 、 朝廷 より 征夷大将軍 の 宣下 を 受け て 大政 を 預かっ て いる 幕府 あっ て こそ の 尊王 攘夷 で ある 、 という 考え を 持つ もの も い た ( 尊皇 佐幕 ) 。
佐幕 は 朝廷 に 反対 意見 で 対抗 し た 。
しかし 、 源 太郎 が 13 歳 の とき この 義兄 は 佐幕 派 の テロ により 惨殺 さ れ 、 家 禄 を 失っ た 一家 は 困窮 し た 。
しかし 、 伊東 と 新選 組 は 攘夷 という 点 で 結ば れ て い た が 、 新選 組 は 佐幕 派 で 、 勤王 ( 倒幕 ) を 説こ う と する 方針 を めぐり 、 密か に 矛盾 が 生じ て い た 。
新選 組 と は 佐幕 と 勤王 倒幕 で 袂 を わかっ た だけ に 、 新選 組 の 襲来 を 恐れ て いつも 刀 を 抱い て 寝 た と いう 。
清河 は 上手く 幕府 を 出し抜い て 今度 は 佐幕 派 を 京都 に 集め 出し た 。
これ に は 来る 4 月 12 日 に 藩主 ・ 山内 豊 範 が 参勤交代 の ため 出立 する こと が 決まり 、 東洋 ら 佐幕 派 に 囲ま れ た 藩主 ・ 豊 範 が 江戸 へ 行っ て しまえ ば 、 久坂 ら と の 三 藩 藩主 勤王 上洛 の 密約 は 水泡 に 帰す と の 情勢 の 切迫 も あっ た 。
元治 元年 ( 1864 年 ) 4 月 に 京都 で 無宿 者 の 犯罪 者 に 身 を 落とし た 岡田 以蔵 が 幕吏 に 捕え られ 、 土佐 に 送還 後 、 拷問 に 耐え かね 、 大阪 で の 土佐 藩 下横 目 ・ 井上 佐一郎 暗殺 、 京 で の 佐幕 派 要人 暗殺 を 自白 し た 。
その 内容 は 八月 十 八 日 の 政変 後 、 京 を 追わ れ た 長州 人 ら が 6 月 下旬 の 強風 の 日 を 選ん で 御所 に 火 を 放ち 佐幕 派 公卿 の 中川 宮 を 幽閉 し 京都 守護 職 の 松平 容保 以下 佐幕 派 大名 を 殺害 し 、 天皇 を 長州 へ 連れ去ろ う と する もの だっ た 。
大正天皇 の 4 皇子 ( 昭和 天皇 ・ 雍仁親王 ・ 高松宮 宣仁 親王 ・ 三笠 宮 崇 仁 親王 ) の うち 、 三笠 宮 妃 百 合 子 を 除く 3 親王 妃 ( 香 淳 皇后 ・ 勢津子 ・ 高松宮 妃 喜久子 ) は 、 いずれ も 大物 佐幕 派 ( 久邇 宮 朝彦親王 ・ 松平 容保 ・ 徳川 慶喜 ) の 孫 で あり 、 本人 たち も それ を 笑い話 に し て い た と 言わ れる 。
岩倉 は 一貫 し て 朝廷 権威 の 高揚 に 努め て い た の だ が 、 結果 的 に は 和宮 降嫁 に 賛成 し 、 さらに 京都 所司代 の 酒井 忠義 と 親しく し て い た こと など から 尊王 攘夷 派 の 志士 たち から 佐幕 派 と みなさ れる よう に なっ て いっ た 。
幕末 に あっ て は 、 三 士 と 呼ば れる 東 沢瀉 、 栗栖 天山 、 南部 五 竹 の 尊王 活動 は あっ た が 、 藩 自体 は 佐幕 的 態度 を 示し て い た 。