家督 継承 者 ( 当主 と なる 嫡子 ) は 山名 氏 ・ 大内 氏 ・ 豊臣 家 ・ 将軍家 ( 足利 ・ 徳川 ) など 有力 者 の 偏 諱 を 受け 「 ○ 元 」 ( 山名 時 熙 の 偏 諱 を 受け た 熙元 、 山名 是 豊 の 偏 諱 を 受け た 豊元 、 大内 政弘 の 偏 諱 を 受け た 弘 元 、 大内 義興 の 偏 諱 を 受け た 興 元 、 大内 義隆 の 偏 諱 を 受け た 隆 元 、 室町 幕府 第 13 代 将軍 足利 義輝 の 偏 諱 を 受け た 輝元 ) と 名乗り 、 次男 以降 は 当主 と なっ た 兄 から 偏 諱 ( 元 の 1 字 ) を 受ける 形 で 「 元 ○ 」 ( 兄 興 元 の 偏 諱 を 受け た 元就 、 兄 隆 元 の 偏 諱 を 受け た 吉川 元春 など ) と 名乗っ た 。
陶 晴賢 による 大内 義隆 の 追放 ・ 討滅 といった 例 も ある 。
大内 義隆 を 討滅 し た 陶 晴賢 が 、 自ら が 大内 氏 に 取っ て 代わる の で は なく 、 大内 義長 を 主君 として 迎え た の は 、 その 典型 で ある 。
天文 20 年 ( 1551 年 ) に 周防 国 の 大内 義隆 が 家臣 の 陶 隆房 ( 陶 晴賢 ) の 謀反 により 自害 する と 、 義鎮 は 隆房 の 申し出 を 受け て 弟 の 大友 晴 英 ( 大内 義長 ) を 大内 家 の 新 当主 として 送り込ん だ 。
また ウォーレン・クロマティ を 4 番 に 据え 、 抑え に 回っ た 鹿取 義隆 と 、 2 年 目 19 歳 の エース 桑田 真澄 、 復活 し た 江川 卓 を 軸 に 若手 投手 陣 は 躍動 する 。
父親 の 重信 末夫 は 、 四元 義隆 と 同郷 の 鹿児島 県 出身 で 、 第 二 次 世界 大 戦前 の 血盟 団 事件 に 関与 し た 右翼 団体 金鶏 学院 の 門下生 で あっ た ( 血盟 団 メンバー と 報じ られる こと が ある が 、 メンバー で は なく 事件 に も 一切 関与 し て い ない ) 。
大内 義隆 の 強い 勧め も あり 元就 は 承諾 し た 。
義隆 の 偏 諱 を 賜い 隆景 と 称す 。
天文 16 年 ( 1547 年 ) 、 大内 義隆 が 備後 神辺 城 を 攻め た とき に 従軍 し 、 初陣 を 飾っ た 。
この 時 、 隆景 は 神辺 城 の 支城 で ある 龍王 山砦 を 小早川 軍 単独 で 落とす という 功 を 挙げ 、 義隆 から 賞賛 さ れ た 。
一方 、 小早川 氏 の 本家 ・ 沼田 小早川 氏 の 当主 で あっ た 小早川 繁 平 は 若年 で 病弱 な 上 、 眼 病 により 盲目 と なっ て い た ため 、 家中 は 繁 平 派 と 隆景 擁立 派 で 対立 し 、 大内 義隆 は 尼子 氏 の 侵攻 に 堪え られ ない の で は と 懸念 し た 。
天文 19 年 ( 1550 年 ) 、 義隆 は 元就 と 共謀 し 、 乃美 隆 興 ・ 景 興 父子 を 中心 と し た 隆景 擁立 派 を 支持 、 尼子 氏 と の 内通 の 疑い で 繁 平 を 拘禁 し 、 隠居 ・ 出家 に 追い込ん だ 。
『 陰徳 太平 記 』 に 、 美貌 で あっ た 隆景 と 大内 義隆 の 衆道 関係 の 記録 が ある 。
天文 2 年 ( 1533 年 ) 9 月 23 日 付け の 『 御 湯殿 上 日記 』 ( 宮中 の 日誌 ) に 、 大内 義隆 より 「 大江 の なにがし 」 を 応永 の 先例 に 倣っ て 官位 を 授ける よう に 後 奈良 天皇 に 申し出 が あっ た という 記事 が ある 。
元就 は 義隆 を通じて 4 , 000 疋 を 朝廷 に 献上 する 事 で 叙任 が 実現 の 運び と なっ た 。
これ によって 推挙 者 で ある 大内 義隆 と の 関係 を 強める とともに 、 当時 は 形骸 化 し て い た と は 言え 、 官位 を 得る こと によって 安芸 国内 の 他 の 領主 に対して 朝廷 ・ 大内 氏 双方 の 後ろ 盾 が ある こと を 示す 効果 が あっ た と 考え られ て いる 。
家臣 の 福原 氏 や 友好 関係 を 結ん で い た 宍戸 氏 ら の 協力 、 そして 遅れ て 到着 し た 大内 義隆 の 援軍 ・ 陶 隆房 の 活躍 も あっ て 、 この 戦い に 勝利 し 、 安芸 国 の 中心 的 存在 と なる 。
天文 11 年 ( 1542 年 ) から 天文 12 年 ( 1543 年 ) にかけて 、 大内 義隆 を 総 大将 と し た 第 1 次 月山 富田 城 の 戦い に も 、 元就 は 従軍 。
しかし 、 当主 不在 の まま 何 度 か 戦 が あり 、 困っ た 小早川 家 家臣 団 は 今度 は 大内 義隆 に 、 元就 が 徳寿 丸 を 小早川 家 へ 養子 に 出す よう に 頼みこん だ 。
元就 も 義隆 の 頼み を 断る こと は でき ず 、 興 景 没 後 3 年 経っ て ようやく 徳寿 丸 は 小早川 家 へ 養子 へ 行っ た 。