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兼 実は 娘 が すでに 後鳥羽 天皇 の 中宮 に なっ て おり 、 土御門 通 親 ・ 丹後局 と は 政敵 で あっ た 。

院 庁 の 執事 別当 に は 四条 隆 季 が 就任 し 、 平時忠 ・ 藤原 長方 ・ 吉田 経 房 ・ 土御門 通 親 ・ 日野 兼光 など 実務 に 長 じ た 貴族 が 、 政務 に 未熟 な 高倉 上皇 を 補佐 する こと に なっ た 。

これ は 土御門 通 親 の 策謀 に よる と いわ れる 。

建 久 9 年 ( 1198 年 ) 1 月 11 日 、 土御門天皇 に 譲位 し 、 以後 、 土御門 、 順徳 、 仲恭 と 承 久 3 年 ( 1221 年 ) まで 、 3 代 23 年間 に 亘り 上皇 として 院政 を 敷く 。

上皇 に なる と 土御門 通 親 を も 排し 、 殿上人 を 整理 ( 旧来 は 天皇 在位 中 の 殿上人 は そのまま 院 の 殿上人 と なる 慣例 で あっ た ) し て 院政 機構 の 改革 を 行う など の 積極 的 な 政策 を 採り 、 正治 元年 ( 1199 年 ) の 頼朝 の 死後 も 台頭 する 鎌倉 幕府 に対して も 強硬 な 路線 を 採っ た 。

建 仁 2 年 ( 1202 年 ) に 九 条 兼 実 が 出家 し 、 土御門 通 親 が 急死 し た 。

父 の 倒幕 計画 に 協力 し た 順徳 上皇 は 佐渡 島 に 流さ れ 、 関与 し なかっ た 土御門 上皇 も 自ら 望ん で 土佐 国 に 遷 っ た 。

後 高倉 皇統 の 断絶 によって 後 嵯峨天皇 ( 土御門 院 皇子 ) の 即位 と なっ た 仁 治 3 年 ( 1242 年 ) 7 月 に は 正式 に 院号 が 「 後鳥羽 院 」 と さ れ た 。

寄人 は 藤原良経 、 慈円 、 土御門 通 親 、 源 通 具 、 釈 阿 ( 俊成 ) 、 藤原 定家 、 寂蓮 、 藤原家隆 、 藤原 隆信 、 藤原 有 家 ( 六 条 藤 家 ) 、 源 具 親 、 藤原 雅経 、 鴨 長明 、 藤原 秀 能 の 14 名 ( 最後 の 3 名 は 後 に 追加 ) 、 開 闔 ( かいこう ) は 源 家長 で ある 。

これ は 、 土御門天皇 系 の 後 嵯峨天皇 ( 上皇 ) が 皇位 継承 を 巡っ て 緊張 関係 に あっ た 順徳天皇 系 の 忠 成 王 ( 仲恭天皇 の 弟 ) に 対抗 する ため に 土御門 系 が 後鳥羽 天皇 の 正統 な 後継 者 で ある こと を 主張 する 必要 が あり 、 その 前提 として 後鳥羽上皇 の 名誉 回復 を 進める 必要 が あっ た ため で ある 。

その ほか 、 宝 治 元年 ( 1247 年 ) に 鶴岡 八幡宮 敷地 内 に 建立 さ れ た 今宮 は 、 後鳥羽 院 を 主神 と し 、 順徳院 、 土御門 院 、 護持 僧 の 長 賢 を 合祀 し て いる 。

現在 の 京都 御所 は 、 もと 里 内裏 ( 内裏 が 火災 で 焼失 し た 場合 など に 設け られ た 臨時 の 内裏 ) の 一つ で あっ た 土御門 東洞 院 殿 の 地 で ある 。

土御門 東洞 院 殿 は 、 元弘 元年 ( 元 徳 3 年 ・ 1331 年 ) 、 後醍醐天皇 が 京都 を 脱出 し た 後 に 鎌倉 幕府 が 擁立 し た 光 厳 天皇 が これ を 里 内裏 として 以降 、 明治天皇 の 東京 行幸 に 至る まで 約 550 年間 にわたって 使用 さ れ 続け た 内裏 で ある 。

現代 の 京都 御所 は 土御門 東洞 院 内裏 そのもの で は なく 、 土御門 東洞 院 内裏 を 基 に 拡充 さ れ 、 幕末 期 に 今日 の 敷地 面積 が 確定 し た もの で ある 。

最初 の 二 人 の 女院 に 即し て 見る と 、 東三条 院 の 称号 は 東三条 第 によって 、 上東門院 の 称号 は 上東 門 第 ( 土御門 第 の 別名 ) ( 大内裏 の 上東 門 は 別名 を 「 土御門 」 と いい 、 そこ に 通じる 道路 は 土御門 大路 または 上東 門 大路 と 呼ば れ た ) によって と 、 いずれ も 里 第 に 由来 し た 。

寛弘 5 年 ( 1008 年 ) 11 月 1 日 、 土御門 殿 で 催さ れ た 敦 成 親王 ( 後一条天皇 ) の 誕生 祝い の 宴 で 、 公 任 が 紫式部 に対して 「 この 辺り に 若紫 は 居ら れ ませ ん か 」 と 声 を かけ た 、 と いう 。

承 久 の 乱 で 土佐 国 に 流さ れ た 土御門 上皇 ( 後 白河 院 の 曾孫 ) が 途中 で 崇徳天皇 の 御陵 の 近く を 通っ た 際 に その 霊 を 慰める ため に 琵琶 を 弾い た ところ 、 夢 に 崇徳天皇 が 現われ て 上皇 と 都 に 残し て き た 家族 の 守護 を 約束 し た 。

そして 万里 小路 充 房 を 宮中 の 風紀 の 乱れ の 責任 に 問い 丹波 篠山 藩 に 配流 、 与 津 子 の 実兄 で ある 四辻 季 継 ・ 高倉 嗣良 を 豊後 に 配流 、 更に 天皇 側近 の 中御門 宣 衡 ・ 堀河 康 胤 ・ 土御門 久 脩 を 出仕 停止 に し た 。

戦国 時代 に は 、 賀茂 氏 の 本家 で あっ た 勘解由小路 家 が 断絶 、 暦 道 の 支配 権 も 安倍 氏 に 移る が 、 安倍 氏 の 宗家 土御門 家 も 戦乱 の 続く なか 衰退 し て いっ た 。

幕 藩 体制 が 確立 する と 、 江戸 幕府 は 陰陽 師 の 活動 を 統制 する ため 、 土御門 家 と 賀茂 氏 の 分家 幸 徳井 家 を 再興 さ せ て 諸国 陰陽 師 を 支配 さ せよ う と し た 。