下総 山川 藩 ( しも う さ やま か わ はん ) は 、 下総 国 ( 現在 の 茨城 県 結城 市 ) に 存在 し た 藩 。
慶長 14 年 ( 1609 年 ) に は 1 万 石 を 加増 さ れ 、 1 万 5000 石 の 大名 として 諸侯 に 列 し た こと から 、 山川 藩 が 立 藩 し た 。
忠 元 は 翌年 、 近江 国 蒲生 郡 に 5000 石 を 加増 さ れ た 。
忠 善 は 代官 制度 の 確立 や 検地 など を 行なっ て 藩政 の 安定 化 に 努め た が 、 寛永 12 年 ( 1635 年 ) に 1 万 石 加増 の 上 で 駿河 国田 中 藩 に 加増 移 封 さ れ 、 山川 藩 は 廃 藩 と なり 、 その 所領 は 天領 、 旗 本領 と なっ た 。
万治 元年 ( 1658 年 ) 9 月 、 兄 の 土井 利隆 の 子 土井 利重 が 宗家 を 継ぐ にあたり 5000 石 を 分与 さ れ 、 常陸 国 河内 郡 、 下野 国 足利 郡 、 武蔵 国 埼玉 郡 、 下総 国 岡田 郡 と 葛飾 郡 を 領する 1 万 石 の 大名 として 諸侯 に 列 し た ため 、 岡田 郡 大輪 村 に 大輪 藩 を 立 藩 し た 。
ただし 、 父 の 利勝 の 功績 を 考慮 さ れ て 、 所領 を 半分 削減 し た 5000 石 の 旗本 として 存続 を 許さ れ た 。
弘 化 3 年 ( 1846 年 ) に 紀州 藩主 ・ 徳川 斉順 が 死去 する と 、 既に 隠居 し た 徳川 治宝 が 推し た 西条 藩 の 松平 頼 学 に 藩主 を 相続 さ せる という 案 を 、 治宝 へ の 中傷 も 交え た 幕府 へ の 働きかけ で 潰し 、 一方 で 将軍 ・ 徳川 家慶 の 側室 に 妹 の お 琴 を 送り込み 、 その 子 で あり 自身 の 甥 ・ 田鶴 若 を 据えよ う と 画策 する 。
安政 4 年 ( 1857 年 ) 、 彼ら の 説得 の ため に 江戸詰 勘定 組頭 の 吉田 庄太 夫 が 派遣 さ れる も 、 村民 の 気持ち を 理解 し た 吉田 が 江戸 藩邸 にて 抗議 の 自決 を する 事態 と なり 、 最終 的 に は 撤回 さ れ た 。
この 騒動 は 、 忠 央 の その後 に 少なから ず 影響 を 与え た と さ れる 。
弟 達 も 幕府 関係 者 に 養子 入り さ せ 、 御 小納戸 の 水野 勝 賢 、 御 使番 の 佐橋 佳 為 ・ 村上 常 要 に 縁組 さ せ た 。
1609 年 ( 慶長 14 年 8 月 ) 、 長 盛 は 丹波 亀山 藩 に 加増 移 封 さ れ 、 ここ に 下総 山崎 藩 は 廃 藩 と なっ た 。
徳川 家康 の 家臣 として 甲斐 国 巨摩 郡 切石 1 万 石 を 領 し て い た 菅沼 定 政 は 、 小田原 征伐 後 に 家康 が 関東 に 移さ れる と 、 北条 軍 に 加わっ て 改易 さ れ た 下総 相馬 氏 の 旧領 で ある 相馬 郡 の 内 に 移さ れる こと と なっ た 。
やがて 土岐 頼 行 は 元和 4 年 ( 1618 年 ) 山城 守 の 受領 名 を 受け 、 25000 石 に 加増 さ れ て 寛永 4 年 ( 1627 年 ) 、 出羽 上山 に 移さ れ た 。
その後 、 源 頼朝 の 有力 な 家人 で あっ た 千葉 常胤 の 子 小次郎 師 常 が 相馬 一 郡 を 領有 し 拡張 さ れ 5 連 郭 から なる 相馬 治 胤 の 城 ( 相馬 城 ) と なっ て い た が 、 豊臣 秀吉 の 小田原 征伐 で の 後 北条 氏 没落 により 、 浅野 長政 軍 が 松戸 小 金城 を 落し た 次に 、 天正 18 年 ( 1590 年 ) 5 月 相馬 城 を 攻め落とし た 。
徳川 家康 が 関東 に 移 封 さ れる と 文 禄 2 年 ( 1593 年 ) 土岐 定 政 が 守谷 領 を 受取り 入城 し 、 6 連 郭 の 城 と し 城下町 や 寺社 を 整備 する 。
現在 、 城址 は ほとんど が 住宅 地 に なっ て いる が 、 一部 が 守谷 城址 公園 と なっ て 整備 さ れ て いる 。
小田原 征伐 後 、 関東 に 移 封 さ れ た 徳川 家康 は 、 国分 氏 ( 下総 国分 氏 ) の 居城 の あっ た 下総 矢作 に 鳥居 元忠 を 4 万 石 で 入 封 さ せ た 。
無類 の 忠臣 で あっ た 元忠 は 、 その 愚直 さ ゆえ に 誤り が あっ て は なら ない と 徹底的 な 検地 を 行っ た ため に 領民 が 悲鳴 を あげ た と 言わ れ て いる 。
家康 は 戦後 、 元忠 の 武功 を 賞 し て その子 ・ 鳥居 忠政 を 陸奥 磐 城平 藩 に 加増 移 封 さ れ た ため 、 矢作 藩 は 廃 藩 と なり 、 天領 と なっ た 。
寛永 7 年 ( 1630 年 ) 、 ついに 正次 は 5000 石 の 加増 を 受け て 1 万 石 の 大名 として 諸侯 に 列 し た こと から 、 ここ に 矢作 藩 が 再 立 藩 さ れ た 。