この 政策 の 最大 の 狙い は 、 ドイツ が ヨーロッパ 諸国 と 同盟 を 結ん で 良好 な 関係 を 築き 、 外交 的 に フランス を 孤立 さ せる こと に あっ た 。
これ は フランス の ナショナリズム および 軍事 力 を ヨーロッパ の 外部 へ の 領土 拡張 に 振り向け させる こと によって 対 独 復讐 に 向かわ せ ない ため で あり 、 その ため に は ドイツ は なるべく 植民 地 的 利害 に は 関心 を 持た ない ポーズ を 取る 必要 が あっ た ( と は いえ 、 ビスマルク 時代 の 後半 において は やや この 方針 は 修正 さ れ 、 他 の 欧州 列強 と 衝突 し ない 程度 に は 東 アフリカ や 西太平洋 の 島嶼 部 など に 植民 地 を 形成 する 企て が 進め られ た ) 。
さらに 、 彼 は ドイツ の 地位 を 安定 さ せる ため に ヨーロッパ の 勢力 均衡 が 平和 な まま 現状 維持 さ れる こと を 望み 、 その ため 列強 間 の 利害 対立 を 積極 的 に 調停 し て ドイツ の 国際 的 地位 を 高める 「 正直 な 仲買人 」 として の 役割 を 演じ た ( 1878 年 と 1884 年 の 2 回 の 「 ベルリン 会議 」 は その 現れ で あっ た ) 。
ビスマルク 体制 は ビスマルク の 卓絶 し た 手腕 によって 維持 さ れ 、 一時 的 に 外交 関係 が 悪化 する 状況 こそ あっ た が 、 ビスマルク の 在任 中 は その 目的 を 完全 に 果たし た 。
1890 年 、 ビスマルク が 辞職 し 、 彼 を 更迭 し た ヴィルヘルム 2 世 の 親政 が 開始 さ れ た 。
動輪 5 軸 を 有する 強力 型 機関 車 で あり 、 奥羽本線 等 の 主要 幹線 の 急 勾配 区間 で 運用 さ れ た 。
4110 形 は 、 1912 年 に ドイツ から 輸入 さ れ た 4100 形 の 機構 を 元 に 、 日本 で 設計 を 改良 し て 国産 さ れ た 機関 車 で ある 。
1914 年 ( 大正 3 年 ) に 30 両 ( 4110 - 4139 ・ 製造 番号 91 - 120 ) 、 1918 年 ( 大正 7 年 ) に 9 両 ( 4140 - 4148 ・ 製造 番号 283 - 291 ) が 、 それぞれ 川崎 造船 所 により 製造 さ れ た 。
1918 年 製 の 9 両 は 、 歩み板 を 第 2 動輪 上部 で 切り下げ 、 それ に ともなっ て 蒸気 管 覆い の 形状 が 丸み の ある もの に 変更 さ れ て おり 、 若干 印象 が 異なる とともに 、 大 煙管 の 本数 が 1 本 増え て 22 本 と なり 、 蒸発 伝 熱 面積 が 118 . 3 m & sup 2 ;、 過熱 伝 熱 面積 が 33 . 7 & sup 2 ; に 増え て いる が 、 公式 に は 諸 元 変更 は 行わ れ て い ない 。
1918 年 製 の 形態 変更 は 、 1915 年 に 製造 さ れ た 汽車 製造 製 の デザイン を 採り入れ た もの で ある らしい 。
これ は 同 時期 に 開発 さ れ た 貨物 用 の 9600 形 蒸気 機関 車 で 採用 さ れ た 形態 で 、 本 形式 も 同様 の 手法 を 採用 し た 。
同様 の 設計 を 行っ た 9600 形 で は 高速 運転 時 の 安定 の 悪 さ が 問題 に なっ た が 、 本 形式 で は 、 従来 ボイラー 脇 に 設け て い た 水槽 の 一部 を ボイラー 下部 に 設ける こと で 重心 の 上昇 を 防止 し た 。
シリンダー 出力 は 15 . 4 tf と 4100 形 と 同じ で ある が 、 動輪 周 上 出力 は 890 馬力 で 、 これ は 同 時期 に 製作 さ れ た 9600 形 蒸気 機関 車 を 上回る 。
1914 年 製 の 本 形式 は 、 奥羽本線 用 として 4116 - 4133 の 18 両 が 庭坂 機関 庫 に 配属 さ れ た ほか 、 鹿児島本線 ( 現 ・ 肥薩線 ) の 峠 越え 区間 で ある 人吉 - 吉松 間 専用 として 、 4110 - 4115 ・ 4134 - 4139 の 12 両 が 人吉 機関 庫 に 配属 さ れ た 。
急 勾配 区間 で の 性能 は 良好 で あっ た が 、 4100 形 と 同じく 運転 速度 が 制限 さ れる など 特殊 な 構造 の ため 運用 線区 は 限ら れ て おり 、 上記 以外 の 区間 で 使用 さ れる こと は あまり なかっ た 。
奥羽本線 は 1919 年 ( 大正 8 年 ) の 電化 調査 線区 の 選定 の 際 、 優先 的 な 電化 の 必要 性 が 高い 路線 と さ れ て い た が 、 実際 の 電化 は 戦後 1949 年 の こと で あっ た 。
4110 形 は 上記 の 両 区間 で 長らく 他 形式 の 進出 を 許さ ず に 活動 を 続け た が 、 1927 年 ( 昭和 2 年 ) に は 川内 経由 の 海岸 線 開通 で 人吉 - 吉松 間 が 鹿児島本線 から 外れ 、 支線 の 肥薩線 に 格下げ さ れ た こと に 伴い 、 輸送 需要 が 減少 し た 。
奥羽本線 も 羽越本線 、 上越 線 、 陸羽東線 ・ 西 線 、 横黒線 ( 現 ・ 北上 線 ) と 板谷 峠 を 迂回 する 形 で 山形 ・ 秋田 両 県 と 関東 を 結ぶ 路線 が 開通 し た こと から 重要 度 が 低下 し 、 庭坂 機関 区 ・ 米沢 機関 区 所属 車 も 先 に 休 車 さ れ た 4100 形 に 続い て 本 形式 も 一部 が 休 車 と なっ た 。
奥羽線 用 に は 庭 坂 の 4126 ・ 4128 ・ 4140 - 4146 および 米沢 の 4119 ・ 4122 ・ 4124 の 13 両 が 使用 中 で 、 庭坂 は 4125 ・ 4127 ・ 4130 - 4133 、 米沢 は 4116 - 4118 ・ 4120 ・ 4121 ・ 4123 が 休 車 と さ れ 、 第 2 種 休 車 は 4116 ・ 4118 ・ 4120 ・ 4121 ・ 4127 の 5 両 で あっ た 。
この 際 、 6 両 は 次節 の とおり 民間 に 払下げ られ 、 残り は 解体 さ れ た 。