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やがて 土御門 家 が 幸 徳井 家 を 圧し 、 17 世紀 末 に 土御門 家 は 民間 の 陰陽 師 に 免状 を 与える 権利 を 獲得 し て 全国 の 陰陽 道 の 支配 権 を 確立 し た 。

現代 に は 土御門 家 の 開い た 天 社 土御門 神道 と 、 高知 県 香美 郡 物部 村 ( 現在 の 同 県 香美 市 ) に 伝わる いざなぎ 流 を 除け ば 、 暦 など に 名残 を とどめる のみ で ある 。

承 久 3 年 ( 1221 年 ) の 承 久 の 乱 の おり に は 、 土御門 上皇 は 何 も 関与 し て い なかっ た ので 処罰 の 対象 に は なら なかっ た が 、 父 で ある 後鳥羽 院 が 遠流 で ある のに 、 自分 が 京 に いる の は 忍び ない と 、 自ら 申し出 て 土佐 国 に 流さ れ た 。

その 地 は 、 現在 の 阿波 市 御所 で 、 土御門 上皇 行宮 址 と 刻ん だ 石碑 が ある 。

同月 5 日 に 三種 の 神器 のみ が 大覚寺 から 北朝 ・ 後 小松 天皇 の 土御門 内裏 に 移さ れ た 。

嘉吉 3 年 ( 1443 年 ) 9 月 に は 後 南朝 勢力 が 土御門 内裏 に 夜襲 を かけ 、 後 花園天皇 は 近衛 忠嗣 邸 に 逃れる が 、 三種 の 神器 の 一部 を 奪わ れ た ( 禁闕 の 変 ) 。

穏和 な 土御門 と は 対照 的 に 激しい 気性 の 持ち主 だ と 言わ れ て い て 、 後鳥羽上皇 から 大きな 期待 を 寄せ られ て い た ため で ある 。

摂政 で ある 九条 良 経 が 自分 の 娘 ( 立子 ) を 土御門 に 入内 さ せよ う と する と 、 後鳥羽上皇 は それ を 中止 し て 東宮 ( 順徳 ) の 妃 に する よう に 命じ ( 『 愚 管 抄 』 巻 6 ) 、 更に 長年 朝廷 に 大きな 影響 を 与え て き た 後 白河 法皇 の 皇女 で 歌人 として 名高かっ た 式子内親王 を 東宮 の 准 母 に しよ う として 彼女 の 急死 によって 失敗 に 終わる と 、 その 代わり として 上皇 自身 の 准 母 で あっ た 殷 富 門 院 ( 式子 の 姉 ) を 准 母 として ( 『 猪 隈 関白 記 』 建 仁 元年 12 月 18 日 条 ) 、 上皇 の 後継 者 として の 地位 強化 が 図ら れ て いる 。

譲位 し た 土御門 上皇 に は 権力 は 無く 、 後鳥羽上皇 による 院政 が 継続 さ れる 。

後鳥羽上皇 ・ 順徳 上皇 は それぞれ 隠岐 ・ 佐渡 に 、 土御門 上皇 も 自ら 望ん で 土佐 に 配流 さ れ た 。

母 は 、 土御門 通 宗 の 娘 、 源 通子 。

土御門 上皇 が 土佐 に 流さ れ た 後 は 、 母方 の 大叔父 で ある 中院 通 方 ・ 土御門 定 通 の 許 で 育っ た 。

だが 、 土御門 家 一門 の 没落 に 伴っ て 苦しい 生活 を 送り 、 20 歳 を 過ぎ て も 出家 も 元服 も ままならない という 中途半端 な 状態 に 置か れ て い た 。

しかし 執権 北条 泰 時 および 現地 六 波 羅 探題 の 北条 重 時 は 、 承 久 の 乱 の 関係 者 の 順徳 上皇 の 皇子 の 擁立 に は 反対 の 立場 を 示し 、 中立 的 立場 で あっ た 土御門 上皇 の 皇子 の 邦 仁王 を 擁立 しよ う と し 、 鶴岡 八幡宮 の 御託宣 が あっ た として 邦 仁王 を 擁立 し た ( 実は 土御門 定 通 の 側室 は 重 時 の 同母 妹 ( 竹 殿 ) で あっ た ため 、 邦 仁王 と 北条 氏 と は 縁戚 関係 に あっ た という 特殊 な 事情 も あっ た ) 。

門人 に は 、 佐藤 直方 ・ 浅見 絅斎 ・ 三宅 尚 斎 ・ 植田 艮 背 ・ 遊佐 木 斎 ・ 谷 秦山 ・ 正親町 公 通 ・ 出雲 路 信 直 ・ 土御門 泰 福 ら が おり 、 闇 齋学 の 系統 を 「 崎 門 学派 」 と いう 。

入内 にあたって は 主上 に 袷 百 と 銀 千 枚 、 中和 門 院 に 袷 五 十 と 銀 五 百 枚 、 近衛 信 尋 と 一条 昭良 ( どちら も 後水尾天皇 の 同母 弟 で 、 近衛 家 ・ 一条 家 に 養子 に 入っ て いる ) に 、 それぞれ 帷子 及び 単物 二 十 と 銀 百 枚 ずつ の 幕府 から の 献上 が あっ た が 、 土御門 泰 重 は その 量 が 少ない と 日記 に 記し て いる 。

やがて 村上 源 氏 の 源 師 房 ( 関白 藤原 頼通 養子 ) が 源氏 長者 と なり 、 以後 は 村上 源 氏 の なか でも 師 房 子孫 の 嫡流 と さ れ た 源 雅 定 の 子孫 に 継承 さ れ 、 久我 ・ 堀川 ・ 土御門 ・ 中院 の 四 家 から 選ば れる こと と なっ た ( 例外 として 、 源 通 親 の 没後 に 弟 の 唐橋 通 資 ・ 雅 規 親子 が 任じ られ た 例 や 亀山天皇 の 時代 に 久我 通 光 の 子 ・ 中院 雅 忠 ( 中院 家 と は 別家 ) が 任じ られ た 例 、 四 家 に 適任 者 が い ない という 理由 で 後醍醐天皇 の 時 に 中院 家 の 分家 で ある 北畠 家 の 北畠 親房 が 、 同じく 光明 天皇 の 時 に 久我 家 の 分家 で ある 六条 家 の 六 条 有光 が 任命 さ れ て いる ) 。

また 、 堀川 ・ 土御門 両家 は 同じ 時期 に 当主 の 早世 が 続き 、 北朝 へ の 忠節 を 示す 機会 に 恵まれ なかっ た 。

その 結果 、 室町 時代 に 堀川 ・ 土御門 ・ 六 条 の 諸家 は 断絶 し 、 中院 家 は 長期 の 衰退 を 余儀なく さ れる 。

なお いわゆる 「 七 清華 」 は 、 清華 家 の 家格 を 有する 多数 の 家系 ( たとえば 藤原 北 家 閑院 流 の 山階 家 ・ 洞 院 家 、 村上 源氏 顕房 流 の 土御門 家 ・ 堀川 家 ) が 中世 を通じて 断絶 し たり 清華 の 家格 を 失っ たり し た 結果 、 最終 的 に 7 家 しか 残ら なかっ た こと を 意味 し て おり 、 はじめ から 家系 が 固定 し て い た わけ で は ない 。