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有栖川 宮 は 歴代 、 書道 ・ 歌道 の 師範 を 勤め て 皇室 の 信任 篤く 、 徳川 宗家 や 水戸 徳川 家 を はじめ 、 彦根 井伊 家 や 長州 毛利 家 、 広島 浅野 家 、 久留 米 有馬 家 など と も 婚姻 関係 を 結び 、 公武 とも に 密接 で あっ た 。

やがて 良仁 親王 が 後 西 天皇 として 践祚 する こと に なる が 、 これ は 先代 後 光明 天皇 の 養子 ・ 識仁 親王 ( 後 の 霊 元 天皇 ) が 幼少 で あっ た ため の 中継ぎ で あり 、 後 西 天皇 は 自分 の 皇子 ・ 幸 仁 親王 に 高松宮 を 継が せ て 、 宮 号 を 有栖川 宮 ( 有栖川 殿 ) に 改め た 。

改号 の 理由 および 「 有栖川 宮 」 の 宮 号 の 由来 は 明らか で は ない 。

その後 は 熾仁親王 妃 董 子 と 威 仁 親王 妃 慰子 の 両 未亡人 が 宮家 を 守っ て い た が 、 大正 12 年 ( 1923 年 ) 2 月 7 日 に 董 子 が 、 同年 6 月 29 日 に は 慰子 が 相次い で 薨去 し 、 翌年 の 慰子 の 一 年 祭 をもって 有栖川 宮 は 正式 に 断絶 と なっ た 。

有栖川 宮 の 祭祀 および 財産 は 、 大正天皇 の 特旨 によって 光 宮 宣仁 親王 により 引き継が れ 、 宣仁 親王 に は 有栖川 宮 の 旧称 で ある 「 高松宮 」 の 宮 号 が 与え られ て いる 。

ただし 、 旧 皇室 典範 によって 皇族 の 養子 縁組 は 禁じ られ て い た ため 、 宣仁 親王 が 有栖川 宮 の 当主 を 継承 し た わけ で は ない 。

有栖川 宮 の 本 邸宅 の 場所 は 、 京都 ・ 東京 時代 を 通じ 、 火災 焼失 等 による 仮住まい の 期間 を 除い て も 複数 回 の 移転 が あっ た 。

代わり に 下賜 さ れ た の が 、 現在 の 京都 御苑 内 で 「 有栖川 宮邸 跡 」 の 碑 が 建つ 、 御所 建 礼 門前 の 凝 華 洞 ( 御 花畑 ) 跡 で あっ た ( この 地 は 直前 まで 松平 容保 が 宿舎 として 利用 し て い た ) 。

有栖川 宮 の 最後 の 本 邸宅 と なっ た 。

霞 関 離宮 本館 と 三 年 町 本邸 ( 絶家 後 は 高松 宮邸 を 経 て 外務 大臣 官舎 ) の 両 建物 は 有栖川 宮 の 絶家 後 も 存在 し 、 関東大震災 に も 耐え た が 、 ともに 昭和 20 年 ( 1945 年 ) 5 月 25 日 の 東京 大 空襲 で 被弾 炎上 し 、 終戦 後 に 撤去 さ れ た 。

当時 の メンバー に は 、 同じく 推理 作家 の 有栖川 有 栖 ら が いる 。

都 が 平安京 に 移っ て 以降 、 いったん 出家 し た 皇族 が 還俗 し て 践祚 し た 例 は なく 、 この 時 院政 を 敷い て い た 後 水尾 法皇 は その 第 19 皇子 で ある 高貴 宮 ( 後 の 霊 元 天皇 ) を 践祚 さ せよ う と し た が 、 高貴 宮 は 生後 間 も なかっ た ので 、 四 世襲 親王 家 の 一つ で ある 有栖川 宮 ( 花 町 宮 ) を 継承 し て い た 良仁 親王 が 高貴 宮 が 成長 する まで の 間 の 中継ぎ として 践祚 し て 、 後 西 天皇 と なっ た 。

こうして 、 寛永 2 年 ( 1625 年 ) の 有栖川 宮 ( 高松宮 ) が 創設 さ れ て 以来 の 新宮 家 誕生 と なっ た 。

有栖川 宮 熾仁親王 ( あ りす が わ のみ や たる ひと しん のう 、 天保 6 年 2 月 19 日 ( 1835 年 3 月 17 日 ) - 明治 28 年 ( 1895 年 ) 1 月 15 日 ) は 、 江戸 時代 後期 ~ 明治 時代 の 日本 の 皇族 、 政治 家 、 軍人 。

有栖川 宮 幟 仁 親王 の 第 1 王子 で 、 幼名 は 歓宮 ( よし のみ や ) 。

有栖川 宮 は 跡 を 継い だ 異母弟 の 有栖川 宮 威 仁 親王 の 代 で 断絶 し た 。

天保 6 年 ( 1835 年 ) 2 月 19 日 、 熾仁親王 は 京都 御所 北東 ( 艮 ) の 有栖川 宮邸 内 において 、 幟 仁 親王 の 第 1 子 として 誕生 し た 。

同年 8 月 22 日 ( 10 月 6 日 ) 、 九条 尚 忠 が 自ら 有栖川 宮邸 に 出向い て 父 ・ 幟 仁 親王 と 面談 。

これら 一連 の 動き により 、 有栖川 宮 父子 は 長州 軍 敗退 後 ただちに 一 会 桑 政権 から 糾弾 を 受け た 。

明治 27 年 ( 1894 年 ) に 勃発 し た 日 清 戦争 において 、 熾仁親王 は 参謀 総長 として 広島 大本営 に 下る が 、 この 地 で 腸チフス ( 当初 は マラリア と 診断 さ れ た ) を 発症 し 、 兵庫 県 明石 郡 垂水 村 舞子 の 有栖川 宮 舞子 別邸 ( 舞子 ビラ も 参照 ) にて 静養 に 入る 。