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しかし 義経 の 転落 を 見 て い た 景時 が 同じ 轍 を 踏む と は 考え られ ず 、 土御門 通 親 や 徳大寺 家 といった 京都 政界 と 縁故 を 持つ 景時 は 、 都 の 武士 として 朝廷 に 仕えよ う と し て い た と 見 られる 。

文治 2 年 ( 1186 年 ) 4 月 、 後 白河 法皇 が 徳大寺 実定 、 花山院 兼 雅 、 土御門 通 親 や 北面 武士 を 伴 に お忍び で 大原 の 閑居 を 訪ね て き た 。

息子 の 藤原 隆 祐 と 娘 の 土御門 院 ( 承 明 門 院 ) 小 宰相 も 歌人 。

文治 5 年 ( 1189 年 ) 10 月 16 日 、 後 白河 院 が 権 中納言 ・ 土御門 通 親 の 久我 亭 に 入り 種々 の 進物 を 献上 さ れ た 。

建 久 2 年 ( 1191 年 ) 4 月 1 日 、 頼朝 の 腹心 ・ 中原 広元 が 土御門 通 親 の 推挙 により 、 慣例 を 破っ て 明 法 博士 ・ 左衛門 大尉 に 任じ られ た 。

次男 ・ 良 経 は 土御門 通 親 死後 の 建 仁 2 年 ( 1202 年 ) 12 月 に 摂政 と なる が 、 元 久 3 年 ( 1206 年 ) 3 月 に 38 歳 の 若 さ で 急死 し た ため 、 兼 実は 孫 の 道家 を 育てる こと に 持てる 全て を 傾け た 。

ただし 、 その 子 源 雅 定 は 「 中院 」 、 その 次 の 源 雅通 は 「 久我 」 、 その 次 の 源 通 親 は 「 土御門 」 と 呼称 さ れ て おり ( 『 尊卑 分脈 』 ) 、 厳密 な 意味 で の 「 久我 家 」 を 通 親 の 子 久我 通 光 を 祖 と する 系統 に 限定 さ せ 、 それ 以前 は あくまでも 「 村上 源 氏 中院 流 」 として 捉える 見方 の 方 が 正確 と さ れ て いる 。

また 頼朝 が 強い つながり を 持っ て い なかっ た 土御門 通 親 など の 公卿 とも 独自 の 連絡 網 を 持っ て い た こと など も 明らか に なっ て いる 。

実際 の 政務 に関して は 、 平時忠 ・ 四条 隆 季 ・ 土御門 通 親 など の 能吏 が 清盛 の 代弁 者 と なっ た 。

京都 の 土御門 家 から 内匠 頭 の 官 名 を 受け た 陰陽 師 で も あっ た 。

政治 的 に は 高倉天皇 の 側近 で ある 四条 隆 季 ・ 土御門 通 親 と 共同 歩調 を 取る こと が 多かっ た が 、 清盛 や 後 白河 院 と は 必ずしも 親密 と は いえ ず 、 時に は その 意向 に 逆らう こと も あっ た 。

和宮 は 天璋院 と 相談 し て 、 征討 大将軍 ・ 仁和寺 宮 嘉 彰 親王 に は 土御門 藤子 を 、 東海道 鎮撫 総督 ・ 橋本 実 梁 に は 上臈 ・ 玉島 を それぞれ 歎願 の 使者 として 差し向ける こと に し た 。

和宮 の 歎願 書 を 携え た 土御門 藤子 は 、 2 月 8 日 に 京 に 到着 し た 。

3 月 1 日 、 土御門 藤子 は 朝廷 の 返書 を 持っ て 江戸 に 帰還 し た 。

また 、 改元 の 是非 を 巡っ て これ を 支持 する 土御門 定 通 ・ 二条 定 高 と 「 天福 」 へ の 改元 に 反対 する 広橋 頼 資 が 仗座 で 激論 を 交わし 、 九条 道家 の 裁定 によって 「 天福 」 に 決し た ( 『 頼 資 卿 改元 定 記 』 『 民 経 記 』 『 五代 帝王 物語 』 ) と さ れ 、 『 五代 帝王 物語 』 は その後 藻 璧門 院 の 諒闇 中 に 後 堀河 院 が 亡くなっ て 、 諒闇 中 の ( 文 暦 ) 改元 に 至っ た として 、 天福 を 「 浅まし ける 年号 也 」 と 批判 し て いる 。

仁 治 3 年 ( 1242 年 ) の 幕府 による 後 嵯峨天皇 擁立 の 際 に は 、 重 時 の 同母 妹 竹 殿 を 妻 と し て い た 土御門 定 通 と 連携 し て 工作 が 行わ れ た 。

また 忠 通 の 同母 姉 ・ 泰子 ( 高 陽 院 ) まで も が 異母弟 ・ 頼 長 の 後ろ 盾 と なり 、 所有 する 摂関 家 の 拠点 の ひとつ 土御門 殿 を 頼 長 に 譲っ た 。

上東 門 と 上西 門 は 大蔵 通用 門 として 「 屋根 を 設け ず 築地 を 開い た だけ 」 の 門 で あっ た ため 、 「 土 の 門 」 = 「 土御門 」 と 呼ば れ た 。

この 門 を 出 た 通り が 「 土御門 大路 」 で あり 、 姓氏 の 土御門 家 や 藤原 氏 邸宅 土御門 殿 は この 地名 に 由来 し て いる 。

幕末 まで 天皇 が 住ん だ 京都 御所 は 、 1331 年 に 光 厳 天皇 が 里 内裏 だっ た 土御門 東洞 院 殿 を 皇居 として 定め た もの で ある 。