古河 公方 足利 義 氏 の 死後 、 関東 における 足利 氏 の 系統 は 断絶 し て おり 、 豊臣 秀吉 は 名 族 の 足利 氏 が 滅亡 する こと を 惜しみ 、 義 氏 の 娘 ・ 足利 氏 姫 ( 足利 氏 女 ) と 、 足利 義明 の 孫 にあたる 国 朝 を 結婚 さ せ て 、 足利 氏 を 再興 さ せ た 。
その後 、 但馬 出 石 の 小 出家 は 藩主 の 早世 が 相次ぎ 、 第 9 代 藩主 ・ 英 及 が 元禄 9 年 ( 1696 年 ) に 3 歳 で 死去 する と 無 嗣 断絶 と なっ た 。
しかし 第 17 代 当主 佐野 宗 綱 の とき 、 長尾 顕 長 と の 戦い に 敗れ て 宗 綱 が 戦死 し 、 一旦 断絶 する 。
天正 18 年 ( 1590 年 ) の 小田原 征伐 で 、 北条 氏 が 没落 し 、 氏 忠 も 運命 を 同じく する と 佐野 氏 は 一旦 断絶 し た が 、 宗 綱 没 後 に 出奔 し 豊臣 秀吉 に 仕え て い た 叔父 の 佐野 房 綱 が 小田原 征伐 で 功 を 挙げ た ため 、 再興 さ れ て いる 。
当然 、 嗣子 が いる はず も なく 、 加え て 末期 養子 の 規定 上 、 17 歳 未満 で あっ た ので 幕府 より 末期 養子 による 相続 認可 が 下り ない ため に 仙台 藩 は 無 嗣 断絶 の 危機 に 立たさ れ た 。
嫡男 の 吉雄 は 正保 2 年 ( 1645 年 ) に 先立っ て おり 、 死 の 直前 、 幕府 に 弟 高 当 ( 高明 ) の 息子 吉 重 の 長男 高 英 を 末期 養子 に 願い出 た が 、 当時 の 規定 で は 末期 養子 が 認め られる の は 当主 の 年齢 が 17 歳 以上 50 歳 未満 に 限ら れ て い た ため 、 数え 69 歳 の 吉 明 の 願い出 は 受け入れ られ ず 、 吉 明 の 死 を もっ て 大名 として の 日根野 氏 は 断絶 と なっ た ( 一族 は 旗本 として 存続 し た ) 。
しかし 、 連合 国 は この よう な 主張 を 認め ず 、 同年 12 月 、 イギリス は フィンランド を 枢軸 国 と み て 宣戦 布告 し 、 フィンランド に 同情 的 で あっ た アメリカ合衆国 も 国交 を 断絶 、 フィンランド の 第 二 次 対ソ 戦 が 始まっ た 。
藤原 定家 の 子孫 は 、 定家 の 孫 の 代 で 御子 左 家 ( 二 条 家 ) から 京極 家 ・ 冷泉 家 が 分かれ 三 家 と なっ た が 、 京極 家 は 早く に 断絶 し 、 嫡流 の 二 条 家 も 室町 時代 に 断絶 し た ( 歌道 の 家元 として の 二 条 派 は 三 条 西家 他 が 相続 ) 。
称 光 天皇 に は 嗣子 が なく 、 1428 年 ( 正 長 元年 ) の 崩御 によって 持明院 統 の 嫡流 は 断絶 し た に も かかわら ず 、 後 小松 上皇 は 伏見 宮家 から 猶子 を 迎え 後 花園 天皇 を 立て て 再び 約束 を 反故 に し た 。
ところが 、 太田 氏 と 北条 氏 と の 関係 断絶 と 政景 の 帰国 は 北条 氏康 の 娘 を 娶っ て い た 兄 氏 資 の 立場 を 微妙 な もの と し 、 やがて 1564 年 ( 永 禄 7 年 ) 、 父 ・ 資 正 は 氏 資 によって 追放 さ れ 、 政景 は 幽閉 さ れ て しまう 。
また 、 太田 氏 の 嫡流 も 資 頼 の 従兄弟 もしくは 兄 と み られる 太田 永 厳 ( 備中 守 ) が 継い だ と 考え られ 、 資 頼も 永 厳 の 息子 に 自分 の 娘 を 嫁が せ て おり 、 大 永年 間 に この 系統 の 断絶 に 伴っ て 資 頼 の 系統 が 浮上 し た と する 見方 が ある 。
この 処分 によって 一関 伊達 氏 は 宗 勝一 代 で 御家 断絶 と なり 、 一関 藩 領 3 万 石 は 仙台 本 藩 領 に 復帰 し 、 家老 ・ 新妻 胤 実 以下 一関 藩士 一同 も 仙台 本 藩 に 帰属 し た 。
その後 、 尾張 藩 の 附家老 で あっ た 平岩 氏 が 無 継 断絶 する と 、 家康 より 特に 乞わ れ て 附家老 に 任じ られ 、 犬山 城 を 与え られ た 。
下 那須 氏 の 出身 で ある が 、 永 正 11 年 ( 1514 年 ) に 上 那須 氏 が 内紛 により 断絶 する と 、 祖母 が 那須 明 資 の 娘 だっ た 縁 も あり 上 那須 家 の 当主 として 大関 氏 や 大 俵 氏 といった 家臣 達 に 擁立 さ れ 、 下 那須 家 の 父 資 房 の 隠居 後 は 統一 さ れ た 那須 家 の 当主 を つとめ た 。
年 幼く し て 家督 を 相続 し た 当初 は その 力量 から ロベール 家 領 の 多く を 失っ た が 、 カロリング 朝 が 断絶 し た こと により 王位 を 継承 、 彼 の 子孫 は しだいに 勢力 を 回復 し た 。
古河 公方 は 断絶 し て 後 北条 家 より 以後 は 古河 に 城 番 が 置か れ た 。
孫 の 土井 利益 の とき 、 志摩 国鳥 羽 へ 移 封 ( 本来 なら ば 無 嗣 断絶 の ところ で あっ た が 、 利勝 の 功績 など から 許さ れ て 、 存続 し た の で ある ) 。
もともと 本多 忠勝 宗家 は 15 万 石 の 知行 が あっ た が 、 移 封 の 2 年 前 、 越後 村 上 の 藩主 時代 の 時 に 当主 の 本多 忠孝 が わずか 7 歳 で 死亡 し て 継嗣 が 無かっ た ため 、 本来 なら 断絶 する ところ を 忠勝 宗家 という こと も あり 特別 の 配慮 をもって 分家 の 忠孝 が 跡 を 継い だ が 、 その 代償 として 10 万 石 を 削減 さ れ て 5 万 石 に なっ て い た 。
だが 、 この 高重 も 31 歳 で 早世 、 また 無 嫡 の ため 佐伯 藩 は 断絶 の 危機 を 迎え た 。
慶長 16 年 ( 1611 年 ) 、 伯耆 国 米子 の 中村 一 忠 が 無 嗣 断絶 で 改易 さ れ た ため 、 その後 を 受け て 伯耆 黒 坂 5 万 石 に 移 封 さ れ て いる 。