安倍晴明 の 子孫 で ある 土御門 家 は 、 明治維新 後 華族 令 により 、 子爵 を 授け られる 。
一般 的 に は ( 専門 書 の 中 に も ) 「 土御門 家 」 の 祖 を 安倍 有 世 に 求め 、 有 世 を 「 土御門 有 世 」 と 呼称 する こと が 多い 。
だが 、 有 世 が “ 土御門 ” を 名乗っ た と する 記録 は 当の 土御門 家 に も 存在 せ ず 、 確実 に 「 土御門 」 を 名乗っ た と 言える の は 、 その 曾孫 にあたる 有 宣 ( 室町 時代 中期 - 後期 ) 以後 で ある と 考え られ て いる 。
かくして 有 世 の 家系 は 堂上 家 ( 半家 ) の 資格 を 得る 事 に なり 、 やがて 有 世 以来 代々 の 当主 の 屋敷 が 土御門 の 地 に あっ た こと から 、 「 土御門 」 を 名乗る 事 と なり 、 他 の 安倍 氏 と は 一線 を 画し て 陰陽 師 として の 公的 な 職務 は 全て 安倍 氏 ( 土御門 家 ) と 賀茂 氏 ( 幸 徳井 家 ) が 取り仕切る 事 と なっ た 。
孫 の 土御門 有 脩 ( 1527 年 - 1577 年 ) は 、 永 禄 8 年 ( 1565 年 ) 賀茂 氏 が 独占 し て い た 暦 博士 を 初めて 兼任 し た 。
その 息子 土御門 久 脩 ( 1560 年 - 1625 年 ) は 若狭 から 戦乱 の 収束 し た 都 に 一時 戻っ た が 、 豊臣 秀次 の 自害 に 連座 し て 失脚 し た 。
その 息子 ・ 土御門 泰 重 ( 1586 年 - 1661 年 ) は 天文 博士 として 衰退 し た 家名 の 再興 に 尽力 し 公卿 として 従 二 位 に まで 昇進 し た 。
更に 陰陽 道 の 総帥 たる 陰陽 頭 の 座 を 巡る 安倍 氏 ( 土御門 家 ) と 賀茂 氏 ( 幸 徳井 家 ) の 間 で の 長年 の 確執 は 、 賀茂 氏 出身 の 幸 徳井 友 傳 が 天和 2 年 ( 1682 年 ) に 35 歳 で 夭折 し た こと で 、 土御門 泰 福 ( 1655 年 - 1717 年 ) が 陰陽 頭 に 任じ られ て 、 以降 陰陽 頭 は 安倍 氏 が 独占 する こと で 決着 する こと と なる 。
泰 福 は 天和 3 年 ( 1683 年 ) 、 全国 の 陰陽 師 の 支配 ・ 任免 を 土御門 家 の 独占 と する こと に 成功 し て 後 に 土御門 神道 を 創設 し て 土御門 家 は 全盛期 を 迎える 。
だが 、 江戸 幕府 天文 方 が 主導 し た 改暦 ( 貞享 暦 ) に 成功 する と 、 改暦 の 権限 を 巡っ て 幕府 ( 天文 方 ) と 朝廷 ( 土御門 家 ) の 間 で 対立 が 生じる よう に なっ た 。
泰 福 の 末子 泰 邦 ( 1711 年 - 1784 年 ) は 、 在野 の 暦 算 家 の 協力 を 得 て 宝 暦 暦 を 制定 する 事 に 成功 し 、 改暦 の 権限 を 再び 土御門 家 に 取り戻す 事 に 成功 し た 。
大正 4 年 ( 1915 年 ) 、 土御門 家 が 保有 し て い た 天文 記録 や 当主 の 日記 など が 宮 内省 に 献上 さ れ て 、 その 多く が 現在 でも 宮内庁 書 陵 部 に 保管 さ れ て いる 。
院政 期 に は 源 師 頼 を 祖 と する 土御門 流 ( 村上 源 氏 系 ) と 源 有 仁 を 祖 として 縁戚 の 徳大寺 実定 ・ 三条 実 房 が 完成 さ せ た 花園 流 ( 閑院 流 系 ) も あっ た と さ れ て いる 。
陰陽 師 として 初めて 公卿 の 地位 に 昇り 、 後 の 土御門 家 の 基礎 を 築い た ため 、 「 土御門 有 世 」 と 書か れ た 書物 も ある が 、 土御門 家 が 実際 に 成立 し た の は 室町 時代 後期 と 言わ れ て おり 、 有 世 を 「 土御門 」 と 呼称 する 事 は 誤り で ある 。
以後 、 有 世 の 子孫 で ある 土御門 家 が 明治 に 至る まで 日本 の 陰陽 道 のみ なら ず 天文 ・ 暦 の 世界 を 支配 し て いく 事 に なる の で ある 。
摂関 家 と の 強い 結び つき は 「 源氏 と 雖 も 、 土御門 右 丞相 の 子孫 は 御堂 の 末葉 に 入る 」 と いわ れ た 。
足利 義満 が 太政大臣 と なる まで は 清華 家 で ある 久我 ・ 堀川 ・ 土御門 ・ 中院 の 4 家 が 交互 に 源氏 長者 を 世襲 し た が 、 室町 時代 に 堀川 ・ 土御門 両家 が 断絶 し 、 久我 ・ 中院 両家 の 世襲 と なる 。
建 久 7 年 ( 1196 年 ) 11 月 、 反 兼 実 派 の 土御門 通 親 ら によって 、 再び 関白 に 任じ られ た ( 建 久 七 年 の 政変 ) 。
ところが 頼朝 の 死後 、 自分 の 庇護 者 で あっ た 文覚 が 土御門 通 親 襲撃 計画 を 企て た として 隠岐 国 に 流罪 に 処さ れる ( 三 左衛門 事件 ) と 、 六 代 も 猪熊 の 宿所 にて 検非違使 の 安倍 資 兼 によって 捕らえ られ 、 田越 川 にて 処刑 さ れ て しまっ た の で ある 。
法皇 の 死後 、 朝廷 で は 頼朝 を 後ろ 盾 と する 九 条 兼 実 が 権勢 を 誇っ た が 、 この 兼 実に 反発 する 一派 が 土御門 通 親 や 丹後局 ら と 手 を 結ん で 対立 する 。