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しかし 頼朝 が 娘 の 大 姫 を 後鳥羽 天皇 に 入内 さ せよ う と し た こと に は 消極 的 で あり 、 土御門 通 親 と共に 九 条 兼 実 を 失脚 さ せる こと に 成功 し た 。

これ は 、 基 房 が 幼少 時 に 実父 ・ 忠 通 の 元 で 育て られ て 、 忠 通 から 九 条 流 ・ 御堂 流 の 有職故実 を 直接 伝授 さ れ た こと 、 ともに 伝授 を 受け た 異母 兄 の 近衛 基 実 の 早世 によって 九 条 流 ・ 御堂 流 の 口伝 を 知る 者 が 基 房 のみ に なっ た こと 、 加え て 妻 の 実家 で ある 三条 家 や 花山院 家 ( 及び 分家 の 中 山家 ) も 有職故実 に 通じ た 家 として 知ら れ て おり 、 基 房 は 九 条 流 や 御堂 流 のみ なら ず 、 両家 を通じて 彼ら が 奉じ て い た 土御門 流 や 花園 流 の 故実 に関して も 知識 を 学び 、 九条 流 - 御堂 流 の 有職故実 の 価値 を 高める 努力 を 欠かさ なかっ た こと に よる 。

基 房 の 没後 、 松 殿 家 自体 は 衰退 する ものの 、 その 有職故実 の 学説 は 「 松 殿 関白 説 」 など と 呼ば れ て 、 近衛 家 ・ 九条 家 を はじめ と する 摂関 家 において 重要 視 さ れ 、 村上 源 氏 や 閑院 流 が 奉じ て き た 土御門 流 や 花園 流 の 作法 を 批判 し て 、 「 正 説 」 ( 九条 良 経 『 春 除目 抄 』 巻 2 など ) で ある 松 殿 関白 説 を 擁する 摂家 こそ が 公家 社会 を 主導 す べき と する 家 意識 を 形成 する こと に なる 。

その後 、 次男 の 二条 良 実 が 祖父 の 公 経 の 後押し も あっ て 関白 と なっ た が 、 祖父 の 後ろ 盾 で なっ た こと を 見 て も わかる よう に 、 後 嵯峨天皇 の 下 で 公 経 と 土御門 定 通 ( 天皇 の 大叔父 ) が 政治 の 実権 を 握っ た 一方 で 、 天皇 家 と の 関係 を 失っ た 道家 の 実力 は 衰退 し て い た 。

ただし 、 暦 の 売買 は 江戸 幕府 及び 陰陽 道 の 土御門 家 によって 厳しく 規制 さ れ て い た ため 、 専ら 金品 の 対価 を 伴わ ない 贈答 品 として 作成 さ れる の が 一般 的 で あっ た 。

承 久 の 乱 で 後鳥羽 院 と 4 人 の 孫 ( 土御門 院 、 順徳院 、 雅 成 親王 、 頼 仁 親王 ) が 配流 と なっ た 後 も 、 後 堀河 天皇 ( 守 貞 親王 の 皇子 ) の 祖母 として 京都 に 留まる 。

土御門 晴雄 ( 陰陽 頭 ) や 佐田 介石 ( 仏教 思想家 ) ら が 、 聖人 の 教え に 反する として 西洋 天文学 を 禁止 する よう に 強く 働きかけ た 。

平安 宮 の 内裏 は 鎌倉 時代 に 焼亡 し た のち 再建 さ れる こと は なく 、 南北 朝 以後 は 内裏 の 東 に 位置 する 里 内裏 で あっ た 土御門 東洞 院 殿 ( つ ち みか ど ひがし の とう いん どの ) が 御所 と なり 、 近世 に なっ て その 内 域 に 紫宸殿 、 清涼 殿 など が 復元 さ れ た 。

その後 、 清浄 華 院 は 14 世紀 中頃 に 土御門 室町 ( 現 ・ 京都 市 上京 区 元浄花院 町 付近 ) に 移転 する 。

ただし 、 等持院 は ( 暦 応 4 年 ( 1341 年 ) 足利 尊 氏 が 後醍醐天皇 の 供養 の ため 創建 し た と の 説 も あり 、 また 清浄 華 院 の 敷地 が 接収 さ れ た の は 等持院 の 鎮守 御所 八幡宮 創建 時 で あっ た など 諸説 ある が 、 少なくとも 観 応 二 年 ( 1351 年 ) に は 土御門 室町 の 地 に 移転 を 果たし て い た こと が 分かっ て いる 。

移転 先 は 昭 慶 門 院 が 世良 親王 に 譲っ た 御所 、 土御門 殿 跡 と 伝え られ て いる 。

『 増 鏡 』 に 昭 慶 門 院 の 「 土御門 室町 に あり し 院 」 が 「 この 頃 は 寺 に 成り て 」 という 記事 が 見え 、 この 「 寺 」 は 浄 華 院 の こと を 指す と 考え られ て いる 。

いずれ に しろ 清浄 華 院 は 室町 時代 を通して 京 の メイン ストリート で あっ た 室町 通り に 面し て 境内 を 営み 、 土御門 東洞 院 殿 や 室町 第 に 程 近い 政治 と 文化 の 中心 地 に 伽藍 を 構え た 。

基本 的 に は 山陰 地方 、 山陽 地方 を 中心 と し た 地方 史 で あり ながら 後 土御門 院 や 足利 氏 の 治世 に まで 記述 が 及ぶ 、 「 中央 志向 型 地方 史 」 と なっ て おり 、 この ため に 81 巻 という 膨大 な 冊数 で 構成 さ れ て いる 。

土御門 中納言 または 堤 中納言 と 号する 。

これ は 、 当時 の 改暦 は 京都 の 土御門 家 が 形式 的 な 責任 者 と なっ て いる ため 、 改暦 作業 に は 土御門 家 の 協力 と 承認 が 必要 だっ た ため で ある 。

寛政 暦 は 実質 的 に 至時 と 重富 の 2 人 が 中心 と なっ て 作っ た 暦 で ある が 、 2 人 は 天文 方 と なっ て から 日 が 浅かっ た ため 、 他 の 天文 方 、 あるいは 土御門 家 や 陰陽 頭 ら と の 見解 と おりあい を つけ なけれ ば なら ず 、 至時 ら の 理論 が 十分 に 生かさ れ なかっ た 部分 も あっ た 。

その ため 至時 は 、 改暦 を つかさどる 土御門 家 と の やりとり や 、 その他 の 雑務 に 追わ れる よう に なっ た 。

土御門 右大臣 と 号 し た 。

著書 に 『 叙位 除目 抄 』 『 土 右記 』 など が あり 、 彼 と その 子孫 による 有職故実 の 流派 は 「 土御門 流 」 と 称せ られ た 。