この 年 、 西 突厥 で 肆葉 護 可 汗 ( 在位 : 628 年 - 632 年 ) が 莫賀 咄可 汗 ( 在位 : 628 年 - 630 年 ) を 倒し て 西 突厥 を 統一 する と 、 大発 兵 し て 鉄 勒 に 侵攻 し て き た 。
貞 観 15 年 ( 641 年 ) 11 月 、 夷 男 は 子 の 大度 設 に 同 羅 , 僕 骨 , 回 紇 , 靺鞨 , 霫 など 20 万 の 兵 を 率い させ て 白 道川 に 駐屯 さ せ 、 善 陽 嶺 に 拠っ て 李 思摩 の 部 を 撃っ た 。
諾 真水 に 至る と 、 大度 設 は 振り切れ ない と 知る と 、 10 里 にわたって 兵 を 連ね た 。
薛延 陀部 は 以前 、 沙 鉢 羅 及び 阿 史 那社 爾 ら を 撃ち 、 歩 戦 で 勝っ た こと が あっ た ので 、 その 戦法 を 用い て 突厥 の 兵 を 撃退 し た 。
李 勣 の 兵 は 防戦 し 、 薛延 陀部 は 1 万 本 も の 矢 を 放ち 、 唐 軍 の 馬 を 傷つけ た 。
この 頃 、 李 思摩 が 数 回 兵 を 派遣 し て 薛延 陀部 を 侵掠 し た ので 、 薛延 陀部 は ふたたび 突利 失 を 遣わし て 李 思摩 を 撃ち 、 定 襄 で 抄掠 し て 去っ た 。
この 事 を 察知 し た 阿 史 那斛 勃 は 旧 地 ( 金山 の 北 ) に 逃げ帰り 、 その 地 で 勝 兵 3 万 人 を 擁し 、 自ら 乙 注 車 鼻 可 汗 と 称し た 。
貞 観 23 年 ( 649 年 ) 、 太 宗 は 右 驍衛 郎 将 の 高 侃 を 遣わし て 密か に 鉄 勒 の 迴紇 部 , 僕 骨 部 など の 兵 を 招き 寄せ て 車 鼻 可 汗 を 襲撃 さ せ た 。
永 徽 3 年 ( 652 年 ) 、 高 宗 は 左 武 候 大将軍 の 梁 建 方 、 右 驍衛 大将軍 の 契 苾何 力 を 派遣 し 、 燕 然 都 護 所部 の 迴紇 の 兵 5 万 騎 を 率い て 西 突厥 の 阿 史 那賀 魯 を 討た せ 、 5 千 級 を 斬首 し 、 渠 帥 60 余人 を 捕虜 と し た 。
拉孟 守備 隊 は 野砲 兵 第 56 連隊 第 3 大隊 長 金光 恵 次郎 少佐 が 指揮 し た 。
負傷 し た 兵 を 除く と 、 まとも に 戦える 戦闘 員 は 実質 1000 名 に 満た なかっ た 。
この 軍 は 、 新式 装備 ・ 兵 の 質 も きわめて 優秀 な 精鋭 部隊 で あっ た 。
これ によって 太平 天国 軍 の 中 に 不満 が 広がり 、 20 万 の 兵 が 天 京 から 逃走 する か 清 軍 と の 戦闘 で 降伏 し た 。
3 月 12 日 、 曽 国 荃 は 梯子 を 利用 し て 最初 の 攻撃 を 試み た が 、 守備 兵 に 背後 から 攻撃 さ れ 失敗 し た 。
5 日 後 、 李 秀成 は すべて の 予備 兵 と 文官 を 投入 する こと を 決定 し た が 、 既に 遅かっ た 。
7 月 18 日 、 李 秀成 は 守備 兵 千 人 に 変装 し て 坑道 部隊 を 襲撃 する よう に 命じ た が 、 清 軍 は だまさ れ ず 失敗 に 終わっ た 。
守備 兵 は 防戦 し た が 、 防ぐ こと が でき なかっ た 。
守備 兵 の 抵抗 は 頑強 で 市街 戦 は 激しい もの と なっ た 。
しかし 朝陽 門 の 陥落 後 、 守備 兵 の 士気 は 衰え 、 羅 逢源 軍 は 聚宝 門 から 侵入 し 、 李 金 洲 軍 は 彭毓 橘 軍 とともに 通 済 門 から 侵入 し た 。
夜 、 李 秀成 と 残余 の 兵 千 人 は 太平 門 に 行き 、 清 軍 に 変装 し て 、 明 孝 陵 から 脱出 する こと に 成功 し た 。