その後 、 莫大 な 御 用金 を 課せ られ たり 、 旧藩 を 分断 する 県域 を 設定 さ れ 弱体 化 を 図ら れる など 敗戦 の 屈辱 を 味わう 。
( ただし 盛岡 藩 の 廃藩置県 の 折 に 課せ られ た 70 万 両 の 納付 は 減免 さ れ て おり 、 藩 の 借金 も 盛岡 に 限ら ず 1843 年 まで は 破棄 、 1844 年 以降 の 物 は 明治 政府 が 国債 3000 万 円 を 起債 し 肩代わり する など 救済 措置 も 見 られ た 。
県域 は 1871 年 ( 明治 4 年 ) の 第 1 次 府県 統合 で は ほとんど 変わら ず 、 1872 年 ( 明治 5 年 ) 1 月 8 日 に は 盛岡 県 から 岩手 県 に 改称 、 1876 年 ( 明治 9 年 ) の 第 2 次 府県 統合 で 磐井 県 から 胆沢 郡 ・ 江刺 郡 ・ 磐井 郡 を 、 青森 県 から 二戸 郡 を 編入 し た が 、 前者 は おおむね 旧 仙台 藩 領 で あり 、 旧藩 が 分断 さ れ た 状態 は 是正 さ れ なかっ た 。
その後 、 1964 年 ( 昭和 39 年 ) に 花巻空港 が 開港 、 1982 年 ( 昭和 57 年 ) に 東北新幹線 の 大宮 - 盛岡 間 が 開業 し て 、 首都 圏 から は 約 3 時間 、 仙台 から も 1 時間 圏内 ( 当時 ) と なり 、 交通 の 便 は 改善 さ れ た 。
1995 年 ( 平成 7 年 ) 以降 、 細川 内閣 ( 当時 ) 打ち出し た 大 規模 景気 対策 に 乗っ て 公共 投資 を 拡大 さ せ 、 その後 1997 年 ( 平成 9 年 ) まで 、 積極 投資 を 拡大 さ せ た 。
結果 的 に は 彼 の 読み 通り 、 小泉 内閣 が 発足 し た 2001 年 ( 平成 13 年 ) 以降 、 公共 投資 予算 は 年 10 % 以上 の 割合 で 急速 に 縮減 さ れ 、 財政 再建 に 大きく 舵 を 切っ た 。
特に 、 2008 年 ( 平成 20 年 ) 2 月 に 決定 さ れ た 東芝 ・ フラッシュ メモリ 工場 の 北上 市 へ の 建設 は 、 波及 効果 を 合わせる と 1 兆 円 程度 の 経済 効果 が ある と さ れ 、 県 は 法人 税 減免 や 低利 融資 など を通じて 、 これ を 後押し する と し て いる 。
東芝 が 「 行政 から の 融資 措置 だけ で なく 、 質 の 高い 人材 の 確保 が 容易 な こと が 決め手 に なっ た 」 と し 、 「 金 の かから ない 新しい 産業 誘致 モデル 」 として 注目 さ れ た 。
自動車 産業 に関して は 、 トヨタ自動車 が 、 東北 地方 を 新た な 生産 拠点 と する 意向 を 示し て おり 、 すでに 金ケ崎 町 に 立地 する 自動車 工場 も 、 現行 より 10 万 台 増 の 25 万 台 生産 規模 まで 拡大 さ れる こと が 決まっ て いる 。
2007 年 ( 平成 19 年 ) に は 、 盛岡 市 を 舞台 に し た NHK 連続 テレビ 小説 「 どんど 晴れ 」 が 放映 さ れ 、 盛岡 さん さ 踊り に 訪れ た 観光 客 が 8 . 7 % 増え て 128 万 3000 人 と なり 、 一定 の 効果 が 上がっ て いる 。
2011 年 ( 平成 23 年 ) に は 、 奥州 藤原 氏 の 栄華 の 遺産 「 平泉 ― 仏 国土 ( 浄土 ) を 表す 建築 ・ 庭園 及び 考古学 的 遺跡 群 ― 」 ( 平泉 町 ) が 世界 遺産 ( 文化 遺産 ) に 登録 さ れ た 。
後者 について は 事業 者 より 廃止 届 が 提出 さ れ 、 2014 年 4 月 1 日 をもって 廃止 さ れ バス に 転換 さ れ た 。
県内 で 登録 さ れる 自動車 の ナンバー プレート の 地名 表記 は 「 岩手 」 で ある が 、 2014 年 11 月 17 日 より 盛岡 地域 ( 盛岡 市 、 八幡平 市 、 滝沢 市 、 紫波 町 、 矢巾 町 ) において 「 盛岡 」 ナンバー 、 県南 地域 ( 一関 市 、 奥州 市 、 金ケ崎 町 、 平泉 町 ) において 「 平泉 」 ナンバー の 使用 が 開始 さ れ た 。
県内 の 民間 放送 局 が 2 局 しか 無かっ た 頃 は 、 仙台 放送 や 東日本 放送 を 中心 に 宮城 県 の 民間 放送 局 の 再 送信 が 行わ れ て い た が 、 民間 放送 局 が 4 局 揃っ た 現在 で は 再 送信 は 全て 中止 さ れ て いる 。
岩手 県 の 方言 研究 は 、 南部 藩士 で ある 服部 武 喬 が 1790 年 ( 寛政 2 年 ) に 著し た 『 御国 通辞 』 において 黎明 と さ れる 。
『 御国 通辞 』 で は 主 に 日常 的 に 使用 さ れる 語彙 567 語 を 、 江戸 語 の 「 こ ほる ( 凍る ) 」 と 盛岡 方言 の 「 しみる 」 に 対応 さ せ て 挙げ 連ねる 形 を とっ て いる 。
1903 年 ( 明治 36 年 ) に 国語 調査 委員 会 の 方言 調査 が 実施 さ れ た の を きっかけ に 、 各 地域 の 学校 ・ 個人 による 調査 ・ 研究 が 盛ん に 行なわ れ た 。
大きく 2 地域 から 4 地域 に 分け られる と さ れ 、 洋 野 町 から 西和 賀 町 まで 秋田 ・ 青森 県 に 隣接 する 帯状 の 北部 方言 地域 、 久慈 市 沿岸 から 大船渡 市 北部 まで の 沿岸 方言 地域 、 盛岡 を 中心 に 遠野 市 中部 ・ 北上 市 北部 まで の 中部 方言 地方 、 横 は 金ヶ崎 町 から 釜石 市 まで の 南部 方言 地方 が ある 。
「 個人 」 という の は 社会 集団 と 対比 さ れ て いる 概念 で あり 、 社会 集団 を 構成 する 個々 の 人 の こと で ある 。
服部 徳 の 『 民 約 論 』 ( 1877 年 ( 明治 10 年 ) ) に は 一 個 ノ 人 という 言葉 が みえ 、 高橋 達郎 の 『 米 國 法律 原論 』 ( 同 ) に は 独立 人民 や 各 個人 々 と なり 、 青木 匡 が 訳し た 『 政体 論 』 ( 1878 年 ( 明治 11 年 ) ) で は 一個人 と なり 、 ついに 文部省 の 訳 『 独逸 國 學 士 佛 郎 都 氏 國 家 生理学 ( 第 二 編 ) 』 ( 1884 年 ( 明治 17 年 ) ) で 「 個人 」 という 言葉 が 記述 さ れ た 。