キャロル は 1952 年 に パデューカ・ジュニア・カレッジ で 准 学士 号 を 取得 し た 。
その 年 夏 、 家族 で レキシントン に 移転 し 、 キャロル は ケンタッキー大学 に 入学 し た 。
キャロル は 学生 で ある 間 に アメリカ 空軍 予備 役 士官 訓練 本部 を通じて 軍務 訓練 を 受け た 。
キャロル は 空軍 弁護士 を 3 年間 務め た 後 に 、 パデューカ に 戻っ て リード・セント・リード・アンド・ウォルトン 法律 会社 に 入っ た 。
1960 年 1 月 、 地元 事業 家 の 集団 が キャロル に 接触 し 、 テネシー 川 流域 開発 公社 ( TVA ) が 電力 を マクラッケン 郡 に 供給 する こと を 認め させる 運動 について 相談 し た 。
キャロル は この 運動 を 先導 する こと に 合意 し 、 その 9 か月 後 の 住民 投票 で は 3 対 1 という 圧倒的 多数 で 、 電力 供給 者 の 変更 が 承認 さ れ た 。
TVA に関する 運動 は マクラッケン 郡 住民 の 目 に キャロル の 存在 を 認め させる こと と なり 、 1962 年 、 初めて 郡 を 代表 し て ケンタッキー 州 下院 議員 に 選ば れ 、 その後 5 期 を 務め た 。
キャロル は 議院 の 手順 に 高度 の 礼儀 正し さ を 与える こと を 決断 し 、 1968 年 の 会期 で は 、 1 つ の 強力 な 小槌 の 一打ち で 議事 を 始め させ た 。
それ に 続い て キャロル は 審議 中 へ の 議場 へ 部外 者 が 入る こと を 禁じ 、 議場 内 で の 飲食 も 禁じ た 。
この 会期 中 に キャロル は さらに 3 つ の 小槌 を 壊し た 。
この 議員 の 賛辞 の 後 に は 、 キャロル に 向け た スタンディング・オベーション が 続い た 。
キャロル は 1968 年 に アメリカ合衆国 上院 議員 選挙 へ の 出馬 を 検討 し た が 、 予備 選挙 に 出る だけ でも 10 万 ドル 以上 が 掛かる こと が 分かり 、 2 週間 で 撤退 し た 。
1971 年 、 元 州 知事 の バート・コームズ が 2 期 目 を 求め て 出馬 し 、 キャロル を その 非公式 副 知事 候補 に 選ん だ 。
州 東部 生まれ の コームズ は キャロル を 選ぶ 時 に 、 州 最 西部 の ジャクソン 買収 地 出身 で ある という 地理 的 な バランス に 配慮 し て い た 。
コームズ は 資金 面 で は 準備 できる と 言っ た ので 、 キャロル が 出馬 に 合意 し た 。
知事 予備 選挙 で コームズ は フォード に 破れ た が 、 キャロル は 勝利 し た 。
キャロル は 共和党 の 対抗 馬 ジム ・ ホスト を 本 選挙 で も 破っ た 。
副 知事 として の キャロル は 議院 研究 委員 会 の 議長 と なり 、 また 全国 副 知事 会議 で も 議長 を 務め た 。
1974 年 、 フォード 知事 の 同盟 者 達 が キャロル に アメリカ合衆国 上院 議員 選挙 に 出馬 する よう 促し た が 、 キャロル は 既に 州 知事 を 目指す こと に 決め て い た 。
その 代わり に フォード が 上院 議員 を 目指し て 当選 し 、 キャロル が 州 知事 を 引き継ぐ こと に なっ た 。